《MUMEI》
プロローグ 血
車が下りの高速を降りて一般道へ入ると、周囲が目に見えて山あいの田舎の景色へと変貌し始めた。
都会育ちの想(そう)にとっては、小学校の夏休みの毎年の恒例行事のイメージが強くなりつつある、父の実家への訪問は、トトロの世界へ紛れこむようなワクワク感を伴っていた。
車はすでに黄昏時を示す橙色の陽光の下で、左手に田畑、右手に雑木林の迫るひび割れの多い舗装路を、路面に散らばる砂利を踏みにじりながら、徐行しつつ進んでいる。
想は左手の車窓におでこを押しつけるようにして、畦道に区切られた無数の水田の列が窓外を流れ過ぎてゆくのを見ていた。
昼間の炎暑の影響か、夕陽を跳ねて橙色に光る水田は水蒸気を立ち上らせて、遠くの景色を影絵のようにぼんやりと霞ませていた。
今にも妖怪「くねくね」でも現れそうな、都会育ちの少年にとっては珍しい田舎の幻想的な景色を夢中になって見ていると、「ねえ...」右手から呼びかける声が聞こえて、想は空想からはっと我に帰った。
呼びかけたのは母の声である。
「どこかで運動会でもしてるのかしらねえ」
想が後部座席に一緒に座る隣の母を振り返ると、母が遠くの音に耳を傾けるようにぼんやり宙空に視線を飛ばして、首を微かに傾げていた。
「子供達の声があんなにたくさん...」
母の背後をすでに闇が忍び寄りつつある雑木林が、凄いスピードで流れてゆく。
想は母が時折浮かべる、あの憑かれたような光が今、瞳の中に浮かんでいるのを見てしまい、ワクワクと浮き立っていた心に不安の影が差すのを感じた。
前で運転する父の背中は、母の声が聞こえているのかいないのか無言である。
「ねえ、あなたったら...」
再び呼びかける声に、
「んん?そうか?」
父がどこか面倒臭そうに応じる。
想は母の言っている『子供達の声』を聞こうと視線を左手の田畑に戻すと、耳に神経を集中させた。
それらしき音は想の耳には捉えられなかった。
「こんな時間まで運動会がやってる訳無いじゃないか。
考えてもみなさい。それに今は夏休みだ」
公務員らしい実直そうな口調で、父が母の言葉を否定する。
車の中に沈黙が一瞬落ちた。
想の心中に嵐の前触れのように、不安の雲がむくむくと育ち広がりだした。
「ほら!」
母が宙空に視線を飛ばしたまま、再び叫んだ。
「聞こえるわよ!あんなに騒いでるのにどうして聞こえないの?!
ね!想には聞こえるでしょ?!」
「母さん...」


バン!


父が運転しながら、ハンドルを叩いた。
「いい加減にしないか!子供の声なんかどこからも聞こえてなど来ん!」
いつもは穏やかな父の激しい口調に、想がびくりとする。
だが怒った事を後悔するように、すぐに父は言った。
「怒鳴ってすまなかった。疲れてるんだよ、お前は。
暫くこっちで静養すれば気持ちも落ち着くさ」
母はそれきりこの件を追及せずに黙ってしまった。
想の心中に育ち始めた不安の雲は、だが、いっかな霧散する気配は無かった。
父が以前に言った母の『病気』がまた出て来たのかもしれない。
そして母の『病気』はいつも移る。
想に...。

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