《MUMEI》 プロローグ一体何が起こったのか。 霞がかった視界の中、灰色の景色のあちこちでゆらゆらと赤い影がゆらめく。 熱さも寒さも、それどころか肉体の感覚すらも分からない。まるで体が煙にでもなってしまったのではと錯覚する程に。 僅かに生きている嗅覚だけが、鉄とガソリンの激臭を拾っている。 どこかからけたたましいサイレンの音が鳴り響いてくるが、分厚い壁でも挟んでいるかのように、その存在は遠く感じる。 否、今尚遠のきつつある。 抗い難い微睡みに侵され、指先一本に至るまで眠りに落ちて行く感覚。 静かに幕を引こうとする瞼を、必死に持ち上げる。 今眠ったら、二度と目覚めることは出来ないような気がして。 「驚いたな」 サイレンに混じって、人の声が聞こえた。 相変わらず視界は最悪だし、音も遠いのか近いのか、どこから届いているのかすら分からない。 だが、確かに男の声がした。 「まだ生きているのか」 その短い囁きは、僅かに笑みを含んでいるように思えた。例えるならば、珍しい昆虫を見つけた少年のような、無邪気で危うげな雰囲気の声音だった。 「なぁお前、このまんまじゃ死ぬぜ?」 何故だろう。頭が回らない。もう相手が何を言っているのかすら分からない。 ただ必死に、すがるように、見えない目で声の主を探した。 「ここだ」 突然視界が全体的に暗くなる。 誰かが景色を遮るように屈んでこちらを見下ろしているのだ。声の主だと、すぐに分かった。 この目には蠢く影にしか見えないそれは、すっと腕をこちらに伸ばして囁いた。 「生きたいなら、この手を取れ。お前自身の意思でな」 霧散しつつあった意識の欠片を無理やり手繰り寄せ、朧げな輪郭を示す腕に、必死に這いずり寄る。 手も足も言うことを聞かない。 そもそも、今の自分にそれが備わっているのかすら怪しい。 だが、ひたすらに、その手を目指して最後の力を振り絞る。 生き延びること、それだけを考えて。 次へ |
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