《MUMEI》
2.無銘国
お尻の下から規則正しく伝わって来る振動が、アヤを夢の世界から現実の世界へと浮上させた。


頬に生暖かい涙の感触を感じながら、目蓋(まぶた)を開く。


スプリングのギシギシ軋む座席。
アヤの右横には窓があり、見慣れぬ砂漠地帯の景色が流れていく。


一瞬、自分の居る場所が認識出来ず、アヤの頭の中を軽いパニックの波が走り抜けた。


「大丈夫?随分うなされていたみたいだけど?」


心配そうな声に左を向くと、隣の座席に座る人の良さそうな老婦人と眼が合った。


「あ....はい。何でも無いんです」


返事をしながら、急速にアヤの内部に記憶が戻って来る。


(また五年前の出来事を、夢に見てしまったんだわ。)


アヤは周囲を見回す。


どこか古ぼけた感じのする旅行バスの、
座席が満杯に混んでいる車内を。


天井付近の網棚からこぼれ落ちそうになっている、旅客達の荷物を。


そうだ。私は貯金と最小限の荷物を持って、この旅行バスに乗り込んだ....。
今頃、修道院では大騒ぎになっているに違いない。


何しろ生徒達からは通称『アルカトラズ刑務所』と呼ばれる、寄宿舎を取り囲む五メートルの塀を突破して、生徒がひとり一夜のうちに姿を消してしまったのだから。
あの厳しいシスターの事だから、もうすでに追手を差し向けているかも知れない。


五メートルの塀....そこまで思考が至った瞬間、アヤは首を傾(かし)げた。


私は一体どうやってあの塀を乗り越えたとゆうのだろう?


記憶がぼんやりと霧に包まれている。


それは五年前のあの日以来、アヤにはよく起こる出来事で、ある意味慣れっこになってしまっているのだが....。


二日前のあの夜、やむにやまれぬ衝動から寄宿舎の窓を抜け出し、眼の前に聳(そび)え立つ塀を見上げていた時の事は憶えている。


あの時、何かが起きたのだ。


それが何かは記憶の霧の彼方だったが、気がついた時にはアヤは塀の反対側の草むらの中に座りこんでいた。


まだ人が寝静まる真夜中、眼の前に広がるだだっ広い田舎の風景に、とてつもない開放感を感じながら、アヤは夢中で走り出していた。


そして明け方、隣の町に辿り着くと、始発の旅行バスに乗り込んだ。


目的地はわかっていた。


何しろそれこそが、アヤをやむにやまれぬ衝動に駆り立てた原因だったのだから....。


その原因を作り出した張本を、アヤは懐から取り出す。


それは封筒であった。


発送先には『無銘国 』の印鑑が押されている。


アヤはすでに何度となく読み返した父からの手紙を、また封筒の中から引っ張り出す。


手紙と共に封筒から出て来て、ひらひらと床に落ちそうになった写真を、慌てて宙でひっさらうように捕まえた。

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