《MUMEI》 W.Cと手書きの貼り紙をされたドアをそっと押す。 すると、キィと軋んだ木の声と共に、冷たく湿ったタイルの部屋が現れる。 度重なる悪戯でボロボロになった上履きの足を一歩踏み入れると、牛乳を拭いた雑巾と同じ臭いが嗅覚機関を突いた。 このトイレは入り口から見て左側に洋式が4つ縦並びに設置されていて、奥から2番目の個室が旭の特等席だった。 ドア枠のすぐ脇にあるスイッチを入れると、ブブ‥と薄汚れた蛍光灯に白光が灯る。 換気の為に窓を全開にして、迷わずいつもと同じ個室に入り、鍵をかけ、読み掛けだった本の続きを追い始める。 今お気に入りの読書は、遥か昔‥100年以上前の童話であるピノッキオという物語だ。 人形の少年が、最後には人間になる‥。 その結末が羨ましくて、憧れで、旭はかれこれ3回は読み直している。 「私も‥いつか人間になれるかな‥?」 あるわけがない。そんな事は。 この先、どれだけ科学が進歩しようと、所詮機械は機械。冷たい鉄の塊でしかない。 無意識に口にしていた希望を、心の内で、もう一人の自分が否定する。 7年前、とある一人の科学者の男によって旭は造り出された。誕生当初は赤子同然だった旭は、彼の元で言葉を学び、知識を得て、人格を形成していった。 そう。旭は、命令に従って動くだけの普通のロボットとは違う、人間のように学び、人間のように感情を持つ機能を備えていたのだ。 旭を造った時、既に重い病を患っていた男は、死の間際、旭にこう言い残した。 『いいかい‥旭。私が死んだら‥君は一人で生きていかなきゃならない。戸籍はちゃんと偽装してあるから安心していい。そして、人間を知りなさい。まずは学校に通って、普通の女の子として過ごすんだ。きっと辛い思いもするだろう‥しかし、決してロボットであることを悟られてはいけないよ』 了解しました。マスター。 そう答えた旭の顔を見て、男は嬉しそうに、それでいてどこか哀しげな微笑みを浮かべ、瞳を閉じた。 『どうか‥人を愛せる子になってくれ』 その言葉が、最後の命令‥否、あれは祈りだったのだろうか。 「マスター‥私には‥彼等が分かりません‥」 開きっぱなしのページにポタポタと雫が落ちる。 印刷の活字を滲ませるそれは、マスターが旭につけた人間の涙腺と同じ働きを持つ器官によるものだ。 おそらくこの胸の痛みも、苦しいと感じる心も、全てはマスターが旭を人間に近づけるためにつけた能力。 それはきっと‥凄い技術なんだと思う。 事実、まだ学校内で本気で旭をロボットと疑う人間はいない。 けれど‥ こんなに辛いなら‥ただのロボットで良かったのに‥。 無音の空間に、小さな嗚咽だけが微かに反響する。 その冷え切った世界を打ち砕いたのは、一発の銃声と、空気を振動させるほどの爆発音だった‥。 前へ |
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