《MUMEI》

扉を潜り抜けたその先には果てしない―――本当に、ただ"果てしない"としか言い様のない―――空間が、広がっていた。


見上げれば、先程とはうってかわって雲が高速で流れていて。

下を見れば一面水の床。
一見すると鏡の様なそれは、「僕」の足元に二つ目の空を造り出している。



――まるで、《"穢れなき青"と"真なき虚ろ"で出来た空間》(そら)の狭間に捕らえられた一羽の鳥………そんな風に「僕」のことを形容してしまえそうな場所。


ふと後ろを振り返ると、少し前に潜り抜けてきた筈の扉が跡形もなく消え去っていた。




――――……?



その時、急に足に違和感を覚えた。



………つめた、い?



目を覚ましてから今までで初めて、「僕」は生物としての感覚を取り戻したらしい。

足だけじゃない。

手は自分に触れる感覚を必死に伝えようとしてくるし
身体中が、心臓の鼓動の感じ方を思い出そうと一生懸命だ。




なんなんだ……これは。



そう思ったとき、またあの声が。



《こっちだよ》



……まただ。
本当に、君は一体誰なんだ。



依然として、視界には「僕」を挟む二つの空以外には何もないのだが、声は正面から聞こえている。

「僕」は声のする方へ走り出した。



「僕」の足は鏡を割るかの様に水飛沫を上げ、荒々しい波紋によって壊された"真なき虚ろ(そら)"は
一目で偽物と分かるくらいにはその姿を歪ませていく。


どこまで走ろうと変わらない風景。


しかし、走るにつれて徐々に感覚は鮮明になっていく。

頬に触れては去っていく風。
足を動かせば動かす程「僕」を濡らす、鏡の飛沫。
打ち鳴らされた鐘の如き鼓動と、熱く騒ぎ立てる血。




――けれど、記憶は何一つとして戻ってこない。
記憶というその概念すら、失くしてしまったかの様に。

何の記憶もない「僕」は、どんな理由も目的もないまま、只ひたすらに走り続ける。

――…いや、目的ならある。
声を追うという目的が。



随分息が上がってきたと思うくらいに走った辺りで、前方にひらりと動く何かを見つけた。

自分の目線と同じ程の高さに何かが一つ、ひらひらと。



これは―――蝶だ。



記憶のすっぽ抜けた、空も同然の「僕」の頭でもそれが蝶であるということくらいは認識できるらしい。

立ち止まってそんなことを思っていると、不意にまた「僕」を誘う声が聞こえる。




「僕」が何かを考えたり、動く気配を見せないと声が聞こえる様な気がする……。



「僕」はその蝶に右手を伸ばす。
指先が触れた、と思ったその刹那、蝶は羽ばたき空へ融ける様に消えていってしまった。


なんだったのか、と思いながら、蝶を追って上げていた視線と顔を正面に戻す。
と、只蝶がいなくなっただけだと思っていたのは間違いだったらしい。

先程まで蝶がはためいていた場所には
スタンプでも押したかの様な…そこの空間だけ切り抜いたかの様な、蝶の型をした白い"無"が、存在していた。


先程蝶に触れた時と同じ動きでそれに手を伸ばす。


しかし、位置的には触れている筈の場所に手を遣っても何の感触もない。



回り込んで見てみようか。
と、少し動いた瞬間。



――まるで、今まで見ていた景色が大きな絵だったみたいだ、と思った。

ボロボロと壁紙が剥がれていく様に。
空間が、瓦解し融解していく様に。


視界一面を、空色をした蝶が次々と飛び立って行く。

数など数えられたものじゃあない。


ザァッという音と、目の前の光景に気圧されて「僕」は目を瞑った――――。














―――時間感覚など、最初からなかった。

只、長いとも短いとも思わない時間をそのまま過ごした後、妙に辺りがしんとしていることに気付き、漸くゆっくりと目を開けた。




―――――っ!?



「僕」の目の前に。

先程まで影も形も無かった筈の、どこまでも高く聳え立つ白い円塔が
悠々とその姿を現していた――――。

前へ |次へ


作品目次へ
感想掲示板へ
携帯小説検索(ランキング)へ
栞の一覧へ
この小説は無銘文庫を利用して執筆されています。無銘文庫は誰でも作家になれる無料の携帯・スマートフォン小説サイトです!
新規作家登録する

携帯小説の
無銘文庫