《MUMEI》

聞き馴染みの無いその名に糸野は怪訝な顔
問うてやったつもりのソレに、だが詳しい返答はなく
その口元にニヤリ不敵な笑みを浮かべ
「こうなってしまえば暫くはどうしようも有りません。……また、きます」
そのまま糸野宅を後にしていた
結局、何をしに来たというのか
豹変してしまったままのアゲハを横目に、糸野は僅かにため息を着いた
「……隆臣様、よろしいですか?」
同時に背後の襖が開き、籠山が現れる
何事かあったのか、滅多な事では変わる事がないその顔が青ざめていた
「……羽田の御頭首様は、一か月ほど前に病気で亡くなられたそうです」
「死んだ?あの男がか?」
ならば、今の今まで見ていたあの男は一体何なのか
確かにあれは羽田 椿本人だったと糸野は訝しむ
「……籠山。もう少し、探りを入れてみてくれ」
まだ情報がほしいとの糸野へ
籠山は糸野に対し恭しく頭を垂れるとその場を辞していた
籠山の気配が完全に離れ、糸野が無意識に息を吐いた、その直後
目の前に、アゲハが唐突に立った
「……お前は、蜘蛛か?」
低く、アゲハの問う声が聞こえ
糸野の首へとアゲハの手が伸びてくる
「……私の羽根を絡めとり離さぬ糸。皆、逃れたいともがいているのに」
徐々に強くなる締め付け
僅かに息苦しさを覚えながらも、糸野はその手を振り払うことはせず
唯、アゲハを見やる
「……お前は、蜘蛛が嫌いか?」
一言問う事をしてやれば、瞬間締め付けが緩み
そしてアゲハの口元が段々と歪に弧を描き始めた
「……憎くない筈がないであろう。私からすべてを奪ったお前が」
全く身に覚えのないそれ
重なっている筈の視線がまるでそうではなく
アゲハは目の前の糸野を通りこし、別の何かを見ている様だった
「蜘蛛など、皆滅んでしまえばいい。そうすれば ――」
言葉も途中にアゲハの身体がその場に倒れ伏す
それを受け止めてやれば、小刻みに身体が震えているのが知れた
「……隆臣様。私、また……」
身体を支える糸野の手に重ねられるアゲハの手
見ればその手に、無数の蝶の痣の様な者が濃く浮かび上がり出す
「隆臣様、助けて。私、怖い ――!!」
一匹、また一匹と増えて逝く蝶の痣
そのすべてがアゲハの皮膚の上で羽ばたく事を始めていた
「……嫌。私は、何も見たくない――!!」
目を見開き、アゲハは泣きわめきながら両の手で顔を覆う
一体、この娘の本性はどこに有るのだろうか?
知れば知るほどに分からなくなっていく
見えるすべてが本性であり、そうではない
そんなあやふやな印象を常に糸野へと与え続けていた
「隆臣様、隆臣様――!!」
助けて、と訴えながら糸野へと手を伸ばしてくる
蝶自ら、蜘蛛の巣へ
そのアゲハの手を取ってやり、身体を引き寄せてやれば
糸野の全身にも蜘蛛の巣の様な痣が徐々に表れていった
「このままでは、私は貴方を殺してしまう。貴方の蜘蛛の糸に殺されてしまう前に」
「随分と物騒な話だな」
「私を、助けてください。隆臣様」
痣に触れてくるアゲハの手
まるでそれを待ち構えていたかの様に糸野の痣がうごめく事を始め
アゲハの手に群れを成す
「このまま隆臣様に食われて死ねるなら、私は幸せです。早く、私を ――」
死を求め、それを糸野に乞い始めるアゲハ
糸野へと顔を上げて見せ、その肩越しに見えたのは着き
いつの間にかすっかり日が暮れしまっていたらしい
「……月?夜が、来るの?」
月の姿を司会の隅に捉えるなり、アゲハの身体が強張り始める
一体どうしてしまったのか、様子を窺っていると
全身の蝶の痣がまるで生きているそれの様に皆蠢く事をはじめ、そして
湿り気を帯びた音を立てながら、アゲハの皮膚を引き裂き痣と全く同じ蝶が姿を現した
「……嫌。全部、逃げてしまう。私の蝶が!!」
一匹、また一匹と羽ばたきながら現へと逃げて逝く蝶
そのすべてを捕まえようと、ふらつきながらアゲハは爪先立つ
濡れ縁へと出、そのまま濡れ縁へと堕ちそうになるその身体を糸野が引き寄せる
「は、なして。私の、私の蝶が!!」
それでも捕まえようと伸ばした手
だがそれは何を掴むこともなく、蝶は指先をすり抜けていく
逃げてしまう
どうにかして捕まえようとアゲハが更に手を伸ばした、次の瞬間
蝶が突然に動く事を止めていた
「私の、蝶……」

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