《MUMEI》
3
深く、暗い重苦しい空気が其処には充満していた
此処は一体何なのだろうか?
感じていた違和感が更に強いそれになり、糸野はあたりを見回す
「……此処は、月夜の杜です。隆臣様」
聞こえてきた声にはじかれるように向き直ってみれば
アゲハに常に付き従っている女中が一人立っていた
取りあえず糸野はその女性に現状を問う
「……アゲハ様は、此処で羽化の瞬間を待つことになります」
「羽化?あいつは人間だろう?」
ふさわしい表現ではない、と表情を歪めてしまえば
女性は僅かに表情を曇らせ糸野を見据える
「……何故、貴方方蜘蛛は何も覚えてはいないのですか?」
「何の事だ?」
「……蜘蛛の、記憶。羽田と糸野の辿ってきたその歴史を」
言い終わると同時に、相手は糸野へと手を伸ばす
その手が頬へと触れてきた次の瞬間、糸野の視界が白濁に染まる
そしてその白の中見えたのは、鮮やかな朱
(所詮、蝶は蜘蛛の餌。喰うも殺すも同じ事か)
冷酷な声でその言葉を呟いたのは、其処に見える人影
指先に停まる蝶を憂う様に眺め、そして徐に口に食む
嚥下する音が鳴ったと同時にその白は消え、糸野は自身へと戻ってきた
見えたあれは何だったのだろうか
分からず怪訝な表情をして見せる糸野へ
アゲハがゆるり近くへと歩み寄ってくる
「……返して、くださいませ。あの時食んだあの蝶を」
返して、とアゲハの手が伸びてくる
だがそれを食んだのは糸野ではない
返せと言われても返しようがないそれにどうしたものかと考え込んでいると
「……返せ。返せぇ!!」
アゲハが声を上げ糸野へと飛び掛かってきた
首を掴まれ、段々と締め上げられる
だが、苦しくはない
細く弱弱しいその力に、糸野は振り払えばいいものをそれをしなかった
喚くばかりのアゲハをいっそ哀れだと思ってしまうほど
その表情は悲痛なそれに満ちていたからだ
「あなたが食んだのは、私の半身。返して、下さい……」
糸野の着物の袷を掴み、その身体を揺さぶる旅
アゲハの全身を覆う蝶は飛び立ち、骨と化した肢体が顕わになっていく
「……怖い、怖い。このまま朽ちて、砕けてしまうかもしれないと考えると……」
良い終わりと同時に頬を伝った涙
ひどく、脆い
儚げな印象すら受けるアゲハの様に糸野は深く溜息を付き
首に未だ触れたままのアゲハの手をやんわりと解くと、身体を抱いてやる
「お前は、俺にどうしてほしい?」
囁くかのように問うてやれば、アゲハは僅かに吐息を漏らし
そして糸野の身体をやんわりと抱き返してやりながら
「……貴方の糸に、囚われたい」
甘く、強請ってくる
蝶自ら蜘蛛の糸に囚われたいと願う
捕らえてやれば、蜘蛛はこの蝶に償えるのだろうか?
そんな事を考えてしまったその直後
糸野手首に合った蜘蛛の痣が蠢きはじめ
徐々に動き始める
指先にまでそれが動くと、アゲハがその手を掬い上げ頬へと宛がった
「……優しくするのは、何故?」
「お前は、手酷いのが好みか?」
「……嫌」
「なら、大人しくしてろ」
アゲハの手を緩くどけてやるとアゲハの身体を抱く
抱く事をしてやれば、蜘蛛の痣は更に蠢き、そして
糸野の皮膚を引き裂きながらその姿を顕わにしていた
「……隆臣様、血が」
驚かないのだろうか?
唯の痣でしかなかった筈のそれが皮膚を引き裂き目の前に現れたというのに
アゲハはそれがさも当然であるかの様に平然と糸野の血を拭っている
「……お前も、出てこれるんだろう?」
それはアゲハへと向けた言の葉ではなかった
アゲハの皮膚を艶めかしく這い回る蝶に向けてのそれ
「……あっ」
アゲハが短く声を上げた、次の瞬間
アゲハの背の肉が裂けていく様な湿った音が突然に響き始めていた
まずは片翼
そして全てが顕わになり、アゲハの身体が力なく崩れ落ちる
「「……どうして?」
自身に何が起こったのかがアゲハ自身分かっていない様で
どろどろとしたものを引きずりながら糸野へと手を伸ばす
頬へと触れる瞬間
突然に現れてきた手がそれを阻んだ
「……やっと、孵った」
その手の主へと向いて直ってみれば居たのは椿
変わり果てたアゲハの姿を見、悦に入った様な表情を浮かべて見せる
「……隆臣様、漸くです。漸く、孵りました。私の、私だけの蝶が!」

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