《MUMEI》
第3章
それから十年がたった。父はすでに亡くなり、敦子は、一人になったが、一人での生活はさほど長くなかった。敦子は、保育園に就職したが、容姿の美しさから、若手の弁護士と結婚するまでこぎ着けたのだ。夫となった男性は、名を松野義久といったが、依然であった人物の名は、すっかり忘れていた。義久の都合で、敦子は専業主婦となり、姑と、同居することになった。
「敦子さん、こんな冷めた味噌汁じゃなくて、もっと暖かいのを。」
姑は鬼姑ではなかったが、要求は大きかった。
「はい、わかりました。只今熱いのにします。」
敦子は、そういったが、基本的に無視していた。
「あら、義久、どうしたの?」
敦子が見ると、義久はなんだかひどく疲れた顔をしている。
「体がかったるいというか、疲れているんだろうか、力が入らないんだよ。」
「休みなさいよ。熱があるみたいじゃない。」
「でも、今日は大事な裁判があるんだ。」
と、言い残して義久は仕事に出ていった。
敦子は、全く気にしていなかった。義久のことは姑に任せておけばいい。
自分は姑の付属品にすぎない。この家にいられるのだからそれでいい。
ただでさえ、義久は働き者だし、弁護士であるのだから、経済的にもこまらない。敦子は、そう信じていた。
ふと、郵便屋がポストに手紙を入れたおとがした。敦子が出てみると、一枚の葉書がポストに入っていた。
「松野義久様」とかかれた葉書の本文を読んでみると、それは、健康診断の通知書で、再検査、と、かかれていた。きっと、貧血にでも、なったのか。敦子は、その程度しか気にしないで、夫の机の上に置いてしまった。
数日後、一本の電話が入った。病院からのもので、すぐにきてくれ、というものだった。敦子は、姑と一緒に病院へいき、目のたまを、ピストルで打たれたような衝撃をうけた。
「胆管細胞癌です。」
医師の顔はきびしかった。
「残された時間は、あと数ヶ月と考えてください。」
「せめて、自宅で過ごすことはできませんか?」
姑はそう言った。敦子は、なにかを奪い取られたような気持ちになった。
「医者としては無理ですね。ここまで進行してしまったら、すこしでも食い止めておくのが医者の仕事です。」
姑は床を叩いて泣き出したが、敦子は、泣こうとも思わなかった。

ところが、敦子も体調に変化が現れたのである。何故か食べ物を口にできない。好きだったコーヒーも飲めず、毎日毎日酸っぱいものばかり食べる。姑の提案で産婦人科を受信すると、大変喜ばしい結果になった。敦子に赤ちゃんが生まれるのだ。姑は心から喜んだが、義久に見せるべきなのか、敦子は迷った。それに義久は、その子には確実にあうことはできなかったから、見せても仕方ない、というより、彼女はやっと、自分の場所を見つけた喜びの方が大きかった。これだけは、自分のものにしよう。敦子は、決断した。

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