《MUMEI》
誤心象
…何がそんなに哀しいんだ。低い声が耳元で聞こえて、目下の膨らみに触れられる。次いで幾度か繰り返された冷たい感触と鼻先に煙草の匂いがする。首筋に、胸元に、順に触れられていくので、自分が涙を零していることにようやく気がついた。三階建物の二階は書庫だが、兼一階喫茶店店主の副業用事務所だと後から聞いた。文芸部の文集があると聞いたのはいつだったろう。置かれた応接ソファに背を預け、身を沈めたままで、思わず制服の胸をきつく押さえる。自分は何を確かめようとしていたのだろうか。何に胸を痛めて、傷ついているのかさえ、自覚してしまったというのに。…お前今、誰のことを考えている? …そんなこと、あんたに言える訳がない。間近で問われて辛うじて答える。後悔と羞恥心から、感覚のない両手で顔を覆ってしまうと、男爵が微笑う。腕を外そうと僅かに力を込められて、両の手を握られた。…俺と一緒だな。指の先が冷たい。掴まれたままの手のひらに冷たい感触が何度もして、次第に温もりに代わる。やがて鼻先を掠めていったものが最後に額に一度だけ触れた。離れる寸前、意味ありげに笑った黒目が光る猫みたいな瞳と目が合って、我に返る。…また、来れば。でも、今度は最後までやっちゃうかもな。犯罪だけど。噂を確かめる事態になるとは思いもしなかった。密室で二人きり、どうなってもいいのだなんて嘯いていたのに。立ち上がった男爵は、窓辺に置いた灰皿を取り上げて、もう新しい煙草に火をつけていた。解放されて向けられた背に一言声をかけると、煙草を挟んだ片手が頭上でひらひらとした。ジュペリ男爵にまつわる噂の真相は、何とも説明できない。結局、自分自身が何をしたかったのか今もわからない。煮え切らない結果となった。

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