《MUMEI》
危機一髪! 1
大反響の『裸婦はエロスか芸術か』は、DVDにして売った。インターネットでも売り、上演した会場でも売った。今泉哲は、稽古場で札束を数え、満面笑顔だ。

「商売繁盛」

「ついに金の亡者になったか」隣で未来がからかう。

「貧乏のどん底を経験した人間にしかわからないよ。これからはね。夜中こっそり起きて、自分の貯金通帳を見て、ニンマリする人生を送るんだから」

「うわあ」

未来はその場を去った。今度は麻未が来る。

「これも紗季のおかげね」

「違うよ、みんなのおかげだよ。僕は最高の仲間に囲まれて幸せだあ、ハッハッハ!」

「悪魔は有頂天に住んでいるのよ」

「怖いこと言うねえ、翠は。でもそうだな。昔から勝って兜の緒を締めよと言うから、油断大敵だ。気を引き締めて行こう」



紗季はその後も、コンスタントに美術モデルの仕事を続けていた。今回の劇が大成功した要因の一つは、紛れもなく彼女が本物の体験者だからだ。

それを知っているのは、麻未と翠と岡田の三人だけだが、紗季のリアリティーは、間違いなく実際の経験によるものだ。

きょうのポーズは、イスにすわったままだから、立っているよりは楽だが、最前列の紳士が気になった。見た感じは60歳を超えているように思えるが、高価そうな洒落たシャツを着ていて、白髪交じりの髪をオールバックにしている。

「・・・・・・」

凄く近い。特に下半身をじっと見つめられて、紗季は緊張し、意識してしまう。

(恥ずかしい・・・)

額に汗が滲む。紗季は目が合わないように遠くのほうを見ていたが、チラチラ観察した感じでは、目がすわっている。芸術家にも見えるが、筋者の雰囲気というか、オーラを感じた。

(893さん?)

この日も無事終了し、紗季は稽古場へ向かった。



上演は順調だった。観客の入りも良く、歓声も上がるし、大盛況だ。「そのうちスカウトされたらどうしよう?」と皆でふざけ合ったが、芸能プロダクションから声をかけられても不思議ではない。

いつものように、出口でファンを見送る。紗季もバスローブ姿で何十人と握手し、満面笑顔で談笑した。「面白かった」「感動した」と感想を語ってくれる人たちに心からお礼を言った。

「紗季さん」

「え?」

突然名前を呼ばれ、紗季は握手しながら初老の紳士を見つめた。

「最高でしたよ」

「あ、ありがとうございます」

「大活躍ですね」

どこかで見たような気がするが、すぐには思い出せなかった。

「あの、どこかでお会いしましたっけ?」

「お、覚えててくれたんですか、こんな老人を」

「老人だなんて」紗季は優しく笑顔を向けた。

男性は、紗季の耳もとに口を近づけると、小声で囁いた。「デッサン会場ですよ」

紗季は思い出した。最前列にいたあの紳士だ。

「あ、いやあ・・・」紗季は笑顔で誤魔化そうとするが、たちまち顔が真っ赤になった。「何か、恥ずかしいですね」

「照れる?」

「照れますよう」

これは初めての経験かもしれない。ヌードデッサン会場で全裸を見られた人に、服を着ている場所で会う。これはたまらなく恥ずかしい。

「また来ます」

「あ、お待ちしていますって、劇場ですよね?」

「もちろん、両方ですよ」

「キャハハハ!」

はしゃぐしかなかった。これは恥ずかしい。

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