《MUMEI》
透明少女と儚き夜
あの有名な小説家、夏目漱石が

英語教師をしていた時の事。

とある生徒が『i love you』を

『我君を愛す』と訳した。

その生徒に対して、漱石は

『月が綺麗ですね、と訳してみたら
どうだい?』

そう言ったそう。

夏目漱石の逸話の一つだ。

現代でも遠回しな告白として

使う人も居るのだとか。

実際、私もそう言われた内の一人。

存在感の無い透明な私に…

そう言った人が一人居た。

彼との出会いは図書館。

私は殆んど毎日、本を読み続けていた。

今でもそうかもしれないが、

今から一年前までの私は殆んど

図書館に入り浸っていた。

何年も通い…春が過ぎて、夏が過ぎて。

秋が過ぎて…冬が来たときの事。

本を探しに、棚を眺めていた時。

読みたい本を見つけ、手を伸ばした時に…

同時に誰かの手に触れた。

その本は、何年も触れられて

いないような…

そんな寂しげで独特な雰囲気を持った本。

だが、私なんかに読まれるより

他の人に読まれた方が良い。

咄嗟に、そう感じて私は

…あっ、すいません。

そう言って、その本棚を後に

しようとした瞬間。

先程、手の触れた人が私に言った。

…この本、寂しそうですね。

僕なんかよりも、貴女が読んだ方が

本にも良いのではないでしょうか?

私の思っていた事を同じように

不思議な雰囲気の彼は穏やかに言う。

そして少し哀しそうな微笑みを、

その本に向けていた。

そして、やがて私に目を向ける。

…嫌、ですか?

私は唖然として立ち尽くしていた。

そんな私に名も知らぬ彼は、

突然、話しかけてすいません。

貴女が本を良く読んでいたのが

目に入りまして。迷惑でしたよね…

彼は苦笑した。

何故か私は、

迷惑じゃない、ですよ…?と言った。

それに彼は優しい表情を見せて、

自分の名を告げた。

天都 海里。

天の都に海の里と書いて、

あまみや かいり。

そう告げた直後に彼の背後から

声を掛けた人が居た。

すいませんが、また…今度。

私を少し気にかけるような表情で

彼は図書館を後にした。

その日は彼に私の名を伝えられなかった。

そうして翌々日。

いつものように図書館に訪れて、

いつものように同じ席に座る。

私の座っている席は外の景色が

とても綺麗なのだが、誰も近寄らない。

その理由は単純。その近辺の本棚は

独特な作品が殆んどだが、

人の興味を惹かないだけだと思う。

そんな事を考えていると、

彼が私に声を掛けた。

そして窓から見える遠くの海を見れば、

綺麗ですね。

そう言えば、窓の景色を真っ直ぐ見ては
微笑んだ。

今日も私が名を告げる事は無く、

数日後にまた会った。

その日から度々偶然が重なり、

一ヶ月に十回程会った。

それから何年も同じ日々が続く。

彼が中学二年。

私が中学一年だった去年。

彼は夜に窓から見える遠くの海に

一緒に出掛けないかと誘われ、

私は行く事にした。

そして、午後六時。

すっかり暗くなっていて、

波の音以外は静寂に包まれている。

やはり、綺麗ですね。

言葉を交わした後は数十分、

二人で海を眺めていた。

恐らく、六時半頃。

彼は口を開いた。

月が綺麗ですね。

……私…………

『死んでもいいです。』

そう言おうとした途端、

彼は私の言葉を遮り、

今日は帰りましょうか。

…そうですね。

そう返事をすれば、彼は笑顔を見せて

歩き出した。

少し後を追うと彼は立ち止まる。

先に行っていてくれませんか?

断ってはいけない気がして、

私は頷き、歩き出した。

図書館の近くに着いたが、後ろの方に

彼の姿は全くない。

私は自宅に帰った。

彼が崖から海へ身を投げていた事を

知ったのは翌日。

図書館に居ると、彼の友人を名乗る人が

私に話し掛けてきた。

彼は、私と初めて会った時の本を

崖の片隅に置いていたそうだ。

その後、その日は今までで一番…

本当に月の綺麗な夜だったと気がついた。

そして、彼に名を告げていない事に。

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