《MUMEI》 「離せっ!」 ダイスケは肩を掴んだ男が、少年の声で叫ぶのを聞いた....。 「離せっ!」 少年の口から漏れた叫びは、大人の男のものだった。 修海は背後を振り返った。 肩を掴んだ男は陽光を背後から浴びて、黒い巨像のように修海を見下ろしている。 影になって表情の見えない顔の中で、 両目だけを白く冷たく光らせて。 「駄目だ、坊主。お前も巻き添えになる。救助が来るのを待つんだ」 離せええええ!!! だがどんなにもがここうとも、肩の手は 万力のごとく食い込んで離れない。 修海はある夏の日に自分が虫ピンで 標本に止めた蝶に、自分自身が今なった気分だった。 周りにはいつの間にか野次馬のように人々が集まりだしている。 坊や、あなたじゃ無理よ、一緒に溺れてしまうわ.... 太陽を遮(さえぎ)る黒い影の群れの中からそんな声が上がると、別の誰かがそれに同意した。 そうだ救助を待たないと駄目だ.... それにしても遅いわねぇ救助の人.... だがその声達はどこか感情のこもらぬ 機械のようで、眼の前の現実から透明な壁で切り離された、今の修海のいる世界とは遠く離れた世界の非現実の存在達が喋っているようだった。 誰か!誰か助けて下さいっ! 修海の声に答える者はいない。 おとなしくするんだ、坊主!聞き分けろ! そうしてる間にも濁流に流される樹木にしがみついた妹から、必死に助けを呼ぶ声が聞こえてくる。 「....けるな....ふざ....けるな....」 呪文のように少年の唇から、大人の男の声が繰り返す。 歯が下唇を噛み締めた。 ブチッ!という音がして、そこから赤い色の液体が、細い筋を引いて顎の先から滴(したた)り落ちた。 樹木が茶色い川の水の中にゆっくり沈んでいくのが、見えた。 一瞬諦めたように川岸のほうを見た妹と、眼があったような気がした。 だがすぐに頭が沈んで、川から突きだした右手が何かを求めるように空を掴む。 やがてその手もゆっくりと濁流に呑み込まれて.... うああああ.... いやだああああ.... 「おい、修海!」 肩を掴んだ手が強い力で修海を後ろに 引き倒した。 眼の前に瀑布のように砂が落下し、視界を遮った。 いやだああ、いやだよおおおお! ああああ、マヤぁあああああ!! 「しっかりするんだ、修海!!」 ダイスケが夢から覚めきっていない修海に往復ビンタを飛ばす。 「早くっ!」 ドクター・ナカマツも叫んだ。 マヤああマヤあああ!! 涙と鼻汁と涎を垂れ流しながら叫び続けている男を引き起こすと、その上体の下に潜り込み、担ぐようにしてダイスケが走り出した。 ドドドドドド.... 背後から轟く崩壊音に追われながら、砂の斜面を駆け下る。 その二人の男の姿を、巻き起こる砂塵があっという間に呑み込んだ。 と見えた次の瞬間、 前へ |次へ |
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