《MUMEI》 売られる先にそこからはあまりに目まぐるしく、そして暴力的なまでに刺激的で――反面、彼女はしっかりしている為にはあまりに辛い気持ちになりすぎていた。そのため何事もぼんやりしていて、現実感がなく、記憶もスナップ写真のように途切れていた。 彼女がようやく我にかえったのは、奴隷市場でのオークションを終え、いかにもきつい顔をした中年女が彼女を引き取る段になってからだ。 手を引かれ、連れてこられた建物を見上げる。いまにも崩れそうな四階建て。場所は下町の中でも特に密集した地帯……見上げる看板には「踊る仔猫亭」の文字――酒場兼娼館だ。 中に入れば物置のような小さな部屋に押し込められる。汚い寝床の他には何もない。それよりかいくぶん清潔な布切れ――衣装らしいそれを女将たる中年女は彼女に押し付けた、睨む。 「……で、アンタ名はなんてんだい。 ふん、黙ってたいなら別にかまいやしないが、なんて呼ばれても文句はなしだよ。」 「……、――…っ。…、リカ。 エーリカです。」 ささやかな、しかし鈴のなるような声だった。 「そうかエーリカ。アンタのやることは単純だ。股を開くでも会話するでもなんでも良いから、お客を満足させな。そうすれば飯と寝床は保証するし、働けば働いただけ、肩代わりしてやったアンタの借金は減っていく。」 女将は恰幅のよい肩を潜める。 「いっとくが、二十も半ばの年を越える頃には返済額に到達してなかろうとここじゃ働かせない。同じく、あたしらに不利益を与えたり不愉快な事をしても、鉱山に有象無象の最低な慰安奴隷として売り払うよ。 まっとうな暮らしに戻りたければ、回りを見るなり聞くなりしてよく稼ぎな。うちみたいな安い店じゃいちいち教育はしない。何か教えてもらったら一発で動くんだ。」 目を白黒させながらも辛うじてうなずいた風に見えたエーリカに、女将は一つうなずいた。 「今晩だけは休みな。明日からは容赦しないよ。壊れたくなければせいぜい頭を使うんだ。」 彼女、エーリカが一定の評価を得るまでにそう長い時間は要らなかった。生きる意欲、能動さには欠けたところもあるものの、それは大なり小なり女の子たちは似たような境遇だった。彼女は賢かった。綿が水を吸うように、生きるコツを理解していく。 問題もあった。彼女には一定の客がついたが、しかしその客というのがだいたい二種類に分類された。枯れたおじさんタイプ……こちらは問題ない。だが逆に支配欲と嗜虐心の強い客にも彼女は好まれた。元は騎士だと主張するある少壮の男は、しばしば彼女を殴り、生傷を作る。しかし彼女はそれを避けるどころか、泣きながらもむしろ恭順する気配を見せていたので、稼ぎ手を壊されたくない女将は渋面を濃くしていた。 彼女が娼館に引き取られて半年後のとある冬の日、ついに事件は起きた。殴打音と悲鳴。珍しいものではない、しかしそれが連続して悲鳴に泡音が混じればただ事ではない。 見回り中に異変に気づいた女将がマスターキーで部屋に踏み込むと、そこには少女に馬乗りになった少壮の男が、その振り上げた太い拳にべっとり、血とヘドをつけていたのだ。 股間の下では、エーリカが原型を留めぬほどに顔を腫らし、端正だった唇から浅い息を繰り返している。 女将は考えるより先に、喫驚した様子の男を蹴り飛ばしていた。そのまま体重を載せて追撃、壁に張り手で打ち付けてやると人を呼び、官権に稼ぎ手を壊した下手人をつきだした。 エーリカは虫の息だった。それに眼や鼻を辛うじて判別できる程度の有り様では、もう店で働くこともできない。生き残ったところでそれでは、今以上に人間扱いをされない末路を迎える事になる。 だから医者を呼ぶつもりはなかったのだが――。 「――エーリカちゃん! ゙私の゙エーリカちゃんは居るかね!!! ――…ンなっ、なんてことだ。」 ――医者の方が勝手に来てしまった。 前へ |次へ |
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