《MUMEI》
美容師・後藤リカ
遊牧民は、留まる事をしない。

羊は、意志を持たない。

パラノイアの頭は、妄想のブラクホール。

汚れを知らないジァンヌダルク。


人の世は気高く、そして儚い。


幸せは、時として傲慢である。


優しい顔の下で、交錯する裏切り。
可哀想な人間が大好きな偽善を纏う彼……。

 

特に進みたい道でもなかった。
高校を卒業して、行きたい大学もなかったし、やりたい仕事もなかった私は、親に進路の選択を迫られ、只何となく美容師の専門学校に進んだ。

そして、一応美容師として働いている。手先が器用な訳でもないし、髪をいじるのが好きな訳ではない。

そして、接客する事も自分に向いているとは思えない。毎日、機械のように同じ台詞を言う。 


「お湯は、熱くないでしょうか?」
「お痒いところは、ございませんか?」

 返事をする客などいない。先輩達とは、休憩時間も合わず仕事以外の会話を交わした事もない。

 だけど、野心の欠片もない私にとってそれは、耐え難い事ではなかった。

 私は、一生懸命とか努力とかそういう汗臭いフレーズが昔から嫌いな人間だ。
 

 一年程そんな日々が続いた。そして店が閉まると人形の髪で、カットの練習をさせられた。 ナイロンの人形の髪を切り刻む。段を入れる。ハサミの十回ローンの事を考えると人形相手にハサミの質を落とすのは、不甲斐ないと感じた。

 一人きりの店内に、表ウインドゥーの看板が光輝いて、こちら側に反射している。

 二百枚近くの洗濯したタオルと照明を落とした店内に一人残されて、練習に励む私に気付く者もなく、硝子の向こう側の人達は、足取りも早い。
 
 人形の髪の前髪をとてつもなく短く切った。その顔が可笑しくて、一人で声をあげて笑った。


小学校の同級生にこんな前髪の子がいた。おでこがコロンとしていて、悪戯ばかりしてみんなを困らせていた男の子だった。なんていったっけ、あの子。名前が思い出せない。


「痛いッ。」
左のひとさし指にハラハラと赤い血が滴り落ちる。ズッキン、ズッキンとひとさし指が途切れ途切れに悲鳴をあげる。鮮血に彩られた左手首を反対の手で、堅く掴み上げ指先を確認した。
 

 ヤバイ。結構深い。指の半分が切れている。干してあった生乾きのタオルを指に巻き付け、店を飛びだした。だけど、どこに行けばいいのか解らない。

 何をしているのか。どうして、私は、ここにいるのか。それすらも解らない。明らかに私は、気が動転している。


 なのに、急かされる気持ちと裏腹に頭の中が真っ白になり右の手首を掴んだまま、私は道に立ちつくしていた。
 


 頭がぼんやりする。コンクリートの上に赤黒い血が滴り落ちているのを私は、為す術もなく眺めていた。眼の前に渦巻きが現れて、頭が無重力になっていった。

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