《MUMEI》
医師・松井 征二
今日も重たい足をひきずりながらアパートに到着するなり玄関に倒れ込んだ。

歩くのもままならずよつんばいの格好で、どうにか寝室まで辿り着く。服をきたまま化粧も落とさずベッドの中に潜り込む。

 眼を瞑ると一気に涙が溢れ出した。
 

 確かに仕事に対して、真摯な姿勢で臨んでるとはいえない。向上心も人と競争するのも私の苦手な分野だ。だけど自分の居場所がないのは、つらい。やる気もないのに自分を認めて欲しいなんてあつかましい。我ながら甘ちゃんな自分に呆れ果てる。
 

 暗くて深い迷宮のブラックホール。
私は魚で、必死に泳ぐ。今日も、敵に襲われそうになり、命からがら逃げて来た。 


明日は?明後日は?餌は?味方は?友達は?恋人は?誰か助けてよ。私を敵から守って…。
 
布団の中の暗闇で、背中を丸めながらただひたすら泣き続けた。もう限界に近い位私は、憔悴しきっている。
 
ちっぽけな魚の私。
泳ぐのも早くないし、逃げてばかりで戦わない。味方もいない。
 ひとりぽっちは寂しいよ。もう泳ぐ事すら辞めてしまいたい。こんなちっぽけで、価値のない私なんて、もう消えて無くなれ……。

 

自分でも自分の行動力に驚いている。


「後藤さん。遅くなったね。待ったかい?」

「あ、いえ。こちらこそ。急に呼び出してしまって。」

松井先生は、白いワイシャツに紺のネクタイでこうしてみると普通の会社員みたいだ。店の店主らしき人が先生を見るなり威勢良く「まいど。」と挨拶した。
 こちらから病院の外来直通の電話をし、怪我の事で相談があるので会って欲しいと言ったのだ。先生は、「いいよ。」と即答し、

「お寿司食べにいかない?」と私に聞いた。

お寿司なんて、実家に居るとき以来口にしていない。いいんだろうか。突然の展開に戸惑いながら私は、「行きます。」と返事した。

先生は、出されたおしぼりで、手早く両手を拭くとメニューも見ずに、「ビールと刺身ね。」と注文した。

「飲めるんでしょ?」

「はい、人並みに。」

先生は、にっこり笑った。病院の時の白衣で、かしこまった感じではなく、屈託のない明るい笑顔だった。
 
すぐにきんきんに冷えたビールがきた。先生にお酌すると先生は嬉しそうにグラスでそれを受けた。そうして、私にもビールを注いでくれた。

「まずは、仕事の後に若いかわいこちゃんのお酌で乾杯。」

先生は上機嫌で、グラスを高々と上げた。私は、先生の言葉で顔にぽっと火が付くような感じを受けた。

先生は、医者特有の人を上から見下すような偉そうな所が全くない。こ難しい事も言わないしプライドの塊みたいなギスギスした所もない。羽毛百パーセントで出来ているような安らぎさえ覚える。

「相談って何?」

刺身の海老を口に運びながら先生は、さらりと尋ねた。

「はい。傷の事なんですけど、六針縫ったらやはり傷痕残りますか?」

「そうだね。だけど回復の状態も順調だし、ほとんど目立たないよ。それに、僕が縫ったから大丈夫だよ。綺麗に縫えてるだろう?」

先生は、無邪気な顔で、そう言うとにっこり笑った。つられて、私も微笑んだ。

先生にかかかかるとどんな複雑な怪我でも何でもない事のようにさえ思える。実際にこの笑顔にたくさんの患者が救われているのだろう。  
 

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