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《MUMEI》 不倫結婚指輪って、そんなに大事なものなんだろうか。 私には、征二さんがはめている指輪の持つ意味の重たさは、解らない。ただ、ひたすらにその輝きが眩しく、征二さんが 「そちら側の人間」 だと痛感する。家に帰ると、明かりがついてて、あったかい食事があって、家庭があって、家族がある。征二さんは、たくさんの人に必要とされている。 私は、誰に必要とされているだろうか。「そちら側」の人間の境界線が、征二さんの薬指に君臨している。その境界線にたどり着くのは、いったい何時の事なのだろうか。 練習用のハサミで、家にある人形の髪を切り刻んだ。ゆっくり慎重に丁寧に。切り刻みながら征二さんが緑色の手術服で、オペに挑む場面を思い浮かべた。穏和な顔がきりりとひきしまる。命をつなぐ征二さんの両手……。胸が熱くなる。彼に少しでも近づきたい。もう少し、あと少しだけでいい。彼に愛されたい。愛され方がうまくなる方法ってあるのだろうか。 征二さんは、術後にあっさりとした前菜をつまみ、軽く飲むのが好きだ。料理は、不得手な私だが緊張から解き離れて、嬉しそうに飲む彼の顔が見たくて必死に勉強した。香辛料も数十種類揃え、定休日には、ホテルのシェフが講師をする料理教室に通い出した。 マグロのカルパッチョ、サーモンマリネ、アポガドとトマトのサラダ、鴨のロースト、ピザ、魚介類の香草パン粉焼き。 少しづつだがレパートリーも増えた。いつ訪れるか解らない彼の為、食材はいつも冷蔵庫がいっぱいになる程揃えておく。 少し前までは、この冷蔵庫の中には、卵と牛乳としおれたネギしか入っていなかったのに。こうして、いつも冷蔵庫が埋まっていると安心する。満ち足りた幸せな気持ちだ。これで、いつ征二さんが来ても大丈夫だ。彼は、いつも感心しながら食事する。 しかし彼は、もっと家でおいしい物を食べているかもしれない。彼の奥さんは、どんな人なのだろうか。想像すればする程、迷宮の中に埋もれていく。夕食のあんパンをかじりながらふと、これで三日間同じ物を食べている事に気が付く。布団の上にうつぶせになって眼を瞑った。 ドアのチャイムがなった。慌てて、飛び起き玄関のドアスコープを確認する。鏡を覗き、手櫛で髪を整えドアを開けた。 「ケーキ買って来た。食べよう。」 征二さんがケーキの箱を大事そうに抱えて、満面の笑みを浮かべた。 「じゃ、今紅茶入れるね。」 征二さんは、アールグレイが好きだ。 葉っぱを入れて、沸騰したての熱湯を落とす。茶葉が開くまで、じっくり蒸らす。蒸らす間は、三分から五分だ。キッチンタイマーをセットする。葉っぱがティーサーバーの中を泳いでいるのを観察していると穏やかで優雅な気分だ。 葉っぱが沈んで来たので、サーバーを下げて、葉っぱをプレスする。芳純な香りが漂う。 「早く、こっちにおいで。」 「時間ないの?」 「早く食べたい。」 「おなか空いていた?」 「ケーキじゃないよ。リカをだよ。」 恥ずかしい事を征二さんは、なに食わぬ顔で言う。 「僕の可愛い子羊ちゃん。」 この台詞を囁かれると私は、ひどく従順な飼い慣らされた羊のようだ。彼の広い大きな胸の中で、彼の意のままに呼吸して、泳いでいる後藤リカはただの女なんだと感じる。不倫だろが何だろうがこれも愛だと本気で考えている莫迦なただの女だと。 征二さんに出会ってからセピア色だった日常が薔薇色になった。店でも先輩に明るくなったと言われる。 表情が柔らかくなったそうだ。征二さんと会っている時のリカは、柔和で、温厚で人を裏切らない従順な羊の顔をしているんだろう。 前へ |次へ |
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