《MUMEI》
八神と桜の樹
八神は家の前でタクシーを拾い、あるところまで頼んだ。
「水の宮公園まで」
タクシーの運転手は小さく返事をし、アクセルを踏んだ。
八神はシートに寄り掛かって窓の外の景色を眺めた。

十分位経った頃、タクシーは人通りの少ない道で車を停めた。
八神は財布から料金をピッタリ支払って、慣れない松葉杖でタクシーを降りた。

公園の敷地に入ると散歩中の人がまばらに居た。年齢層は高い…。
八神は大きな池の周りの道を歩いた。
池の真ん中には小さな島がある。その小島には、大きな桜が満開に咲き誇っていた。
八神は橋を渡って小島へ向かう。
その桜の樹は、樹齢百二十年と言われる街一古い樹で、季節はずれの桜が咲く。
周りは一気に葉が散り、冬になったというのに、この樹だけは冬に樹いっぱいにピンク色の綺麗な花が咲く。

八神は樹の下まで歩み寄り、樹を見上げた。
桜が風に揺れている…。
八神にはその風が、冷たい冬の風では無く、春の心地良い風に感じた。
「懐かしいな…」
八神は誰にとも無く呟いた。

八神は昔此処に来ていた。

―八神.八歳―
八神は両手を両親に引かれ、家族四人でこの街に引っ越して来た。
昔住んでいた場所はイタリア。
後で聞いた話、父がイタリアに留学して、向こうで母と知り合い、結婚したのだそうだ。
この街に越して来て、始めに来た場所がこの桜の樹だった。

あの頃は年が開けた頃で、桜が散り始めていたが、生まれて始めてみる桜に八神は感動した。

そして…引っ越して間もなく…八神の父が薬物を使用して薬物中毒に陥り死亡した。

八神にとってこの場所は、今亡き父との最期の思い出の場所なのだ。

「父さん…」
八神は桜に向かって呪文の様に囁いた。

風が桜を揺らした。

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