《MUMEI》

「帰った方がいいよ。
ホラ、御祖父様にもあまり慣れない付近には行くなと禁じられてるから。」

慶一は兼松という切り札を持ち出して帰りたがる。


「……ふぅん、怖いのか。」

林太郎はわざとらしい言い回しを使い慶一を挑発する。

「違うよ、そんな筈無い。」

顔を紅潮させて慶一は叫ぶ。

「じゃあ、柵越えしてみようか。今なら何か木に実がなっているだろうし。」

「実が採れるなら行く。」

慶一は食欲に素直だった。


暫く木上りを堪能してから上着を球状にし、林太郎は慶一に球の受け方を教えた。


「林太郎君、大変だ、上着が失くなったよ。
あの内ポケットには玉江さんの懐中時計が入っているのに。」

玉江とは、慶一の通う学院の近辺に在る茶店の娘で、彼は一目見たときから彼女を慕っている。

「……君は馬鹿なのか。」

玉江の懐中時計とは彼女が肌身離さず持ち歩いていた品で、慶一は彼女が落としたそれを拾ったものの、渡しそびれていたのだった。

慶一の言葉が正しければ、そんな大切な物を投げ交わしていたことになる。

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