《MUMEI》
“犠牲”
男はふと般若の言葉を思い返した。


「生亡くしし者が集う、死への通り道」


『俺は…死んだのか…』
男はつぶやき、そして眼を閉じた。

ゆっくりと頭の中を落ち着かせてゆく。

漆黒の闇は、先程まで不気味に微笑むばかりであった。
しかし、眼を閉じ、その身を委ねると、まるで闇の一部になったかのような感覚に陥る。

だんだんと記憶が蘇ってきた。

『…さゆ……』

男はそうつぶやいた。


闇と同化していく。そのような感覚のなかで、男は己の記憶と向き合っていた。









「か、勘弁しとくれ!!俺には妻も子もいるんだ!!」

「ぎゃああぁぁっ!!!」


荒れ果てた草地、吹き荒れる風。
その中で叫び声にも似た悲鳴が上がった。


断末魔の後に残ったものと言えば、さっきまで声をあげていた肉の塊。

そして、刀を拭う男。

その男の眼光は、鷹のように鋭く、瞳の奥に哀れみは存在しなかった。


人間は何かの犠牲の上に成り立っている。

どんなに慈悲深い者であれ、生きる為に物を喰らう。

可哀想、無慈悲、人でなし。

そのような言葉を並べるのは偽善だ。男はそう考えていた。

何の犠牲もなく生きてゆけるであろうか。

否。

まして、他人の為に己を犠牲にできるであろうか。

否。

結局、己の為に何かを犠牲にするのが人間である。

この日、男は生きる為に、己の為に一つの生を犠牲にした。


犠牲になった生が、家畜であったか、人間であったかなどは男には関係のないことだった。

お尋ね者とよばれる一人の男の生を犠牲にした。
ただそれだけのことだ。

刀を鞘に収めると男は奉行所へと向かった。


犠牲にした生が銭へとかわる。


殺しは御法度だ。しかし、その殺しも相手が罪人となると義にかわる。銭になるのだ。

人間の生に違いがあるのだろうか。

男は嘲るような笑みを口元に浮かべ、奉行所をあとにした。

つづく

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