《MUMEI》

「…んじゃ、遠慮なく」



椎名くんが椅子に座る。



「ほら、ようちゃんも座って」



香織さんに促され、私も椅子に腰掛けた。



「……香織さん、」



私が呼びかけると、



「なに?」



紅茶を差し出しながら香織さんが穏やかに応える。
私は、紅茶を受け取って、



「…なんで、こんなあり得ない話―…、信じてくれるの??」



と、恐る恐る訊いた。

すると、香織さんは紅茶を一口飲むと、優しく微笑んで話し始めた。



「そうねえ…最初は、カップルがイチャついてるんだと思って、ほっといたんだけど。
―…ようちゃんの声がしたから。…しかも、言葉遣いは荒っぽいし。
……何かあるわね、って思って、話聴いちゃったの」


「…でも!―…たったそれだけで、そんな―…」


「―…そんなあり得ない話信じたのはね、あたしが『ようちゃん』って―…椎名くん、あなたに呼びかけたとき」


そう言って、香織さんは、紅茶をふうふうと冷ます椎名くん(見た目私)に目を向けた。


「そのとき、返事したのがあなたじゃなく―…」


香織さんの視線が私に向けられる。


「―…あなただったからよ、…『ようちゃん』」



その優しい響きに、涙が溢れそうになった。


『ようちゃん』―…


私が小さいときからずっと、香織さんは、私のことを『要(よう)ちゃん』って呼んでいた。


そう呼ぶのは香織さんだけで、理由は『何となく音読みで』らしいけど、それでも、私はその響きを気に入っていた。



「…誰にも言えなくて、辛かったでしょう??―…頼りないかもしれないけど、あたしは、味方だから」



―…もうだめだ。


我慢していた涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。


香織さんの優しくて温かい手が、私の頬の涙を掬った。

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