《MUMEI》

もう、こんな時間を過ごすことはないのか。
俺たちは誓った。
踏み込んでは行けない領域に入ったら、二度と逢わない、と。
そんな関係を続けた末路は見えている。
俺も夏生も、人生を壊したくはなかった。
だから、今まで気持ちの昂ぶりを抑え、関係を持たずに来たのだ。

だが今、俺の気持ちはどうだ。
夫の転勤に夏生がついていくことになった。
どこかですれ違うことはまずない距離だ。
それをきっかけに、お互いの気持ちは急激に近づいた。

何も起きなければ、こんなに心は傷まなかったかもしれない。
俺にとって今、こんなにも夏生が大きな存在となっていた。

「お先…」

バスルームから出てきた夏生は、はっと足を止めた。
俺が泣いていたからだ。

「どうしたん?」

我ながら情けなかった。
別れる時の自分を、想像できていなかった。
もう、電話もメールもできない。
逢うこともない。

夏生は俺に近づき、俺を抱きしめた。
湯上がりの肌が、微かにしっとりしている。
夏生は黙って俺を抱いていた。
ただ、黙って…


外へ出る頃には、少し立ち直っていた。
夏生にあまり顔を見られたくなかった。
あと数メートル行くと、駅前に出る。

「じゃあ、このへんで…」

夏生が俺のほうを向いて言った。

「…ん。じゃあ、」

また、と言いかけて、口をつぐむ。
それを察したのか、夏生は俺に軽くキスをした。

「元気でね。」

そういって駅まで駆け出す。
後ろは振り返らなかった。
俺は見えなくなるまで、夏生の後ろ姿を見送った。

近くの公園に、足を向ける。
犬を散歩させる人とすれ違った。
公園のベンチに座り、煙草に火をつける。


俺たちは、壊れた。
もう、元に戻ることはないだろう。

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