《MUMEI》
◇予感◆
「行ってらっしゃい。」

いつもと同じように夫を送り出し、私は一人の時間を過ごす。
引っ越して、はやふた月になる。
ご近所の人たちとは、挨拶する程度には交流している。
子供のいる家庭が多く、うちには子供がいないからだ。

私は、絶えず何かをしていた。
最初のひと月は、家の片づけなど、時間をかけてやった。
今は趣味で絵を描いている。
油絵、水彩、スケッチ…あらゆる方法で描く。

忘れたかった。あの日のことを。
思い出せば、家出して千秋の元へ行きそうになる。
胸が熱くなり、傷む。

スケッチブックを開いて、テーブルの上の果物を描く。
静かな中に、鉛筆を走らせる音が微かに響く。

突然、軽い目眩に襲われた。
気分が悪かった。
よろよろしながらソファへ行き、体にブランケットをかけ、私は横になった。
私は少し前から、ある体調の異変に気づいていた。
確信はなかった。心が不安定なときは、必ず体調も不安定になる。
まだ陽は高かった。少し眠ろう。


どれくらい経ったのか。
少し肌寒さを感じて、私は目が覚めた。
陽が傾きはじめて、陰の割合が多くなっている。
気分はもう落ち着いていた。

私は、買い物に行くことにした。
上着をはおり、買い物かばんを持って、家を出る。

すぐ近くに小さなマーケットがあるが、今日は少し歩いて大型マーケットへ行く。
私は、この道中が好きだ。きれいに造られた遊歩道を楽しみ、季節によっては花を愛でることができる。

私は夕食の材料を買い、レジで精算を済ませた。
その足で薬局へ向かう。
妊娠検査薬は、生理用品コーナーの隅にあった。
二つ手にとる。
それだけを買うのは、気持ちがはばかられた。
他に、ヘアケア用品とボディシャンプーも買い物かごに入れる。
ちょうど客が列をつくりはじめていた。
私はその中にまぎれた。
誰に足留めされることもなく、私は買い物を終えた。

外に出ると、薄暗くなっていた。
ポケットの中で、携帯電話が鳴っている。
夫だった。今日は飲みに行くという。
私は何故かほっとしていた。

家に着いた。買ってきたものを片づける。
妊娠検査薬を手にとった。トイレに行き、試してみる。
結果は、陽性だった。


ベランダに出て、空を見上げる。
今夜は月が美しい。
…今頃、千秋も同じ月を見ているのだろうか。

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