《MUMEI》
◇疑惑◆
時計の針が午後4時30分に差し掛かっていた。
そろそろ顧客先へ行くために、会社を出なければならない。
これから訪れる顧客は、俺の家と同じ方向なので、打ち合わせの後直帰することにした。
ホワイトボードに“NR”と書き、事務の女性に声をかけて執務室を後にした。

駐車場へ行き、リアシートに鞄と資料を乗せ、車に乗りこむ。
地下駐車場からゆるやかに坂を上がり、車を公道に滑りこませる。

信号待ちになった。
音楽を聴こうとミュージックプレーヤーを上着のポケットから出したとき、下に何かが落ちた。夏生からプレゼントされたライターだった。
信号が変わらないうちに、素早く拾い上げた。

間もなく信号は青に変わり、俺はアクセルを踏んだ。
直進している間に、ライターを胸ポケットに入れる。
夏生との最期を境に、俺は煙草を吸わなくなった。
ヘビースモーカーではなかったし、このライターを見るとあの夜のことが鮮明に想い出されるからだ。
欲情、そして喪失感が俺の中でマーブリングする。

車はカーブに差し掛かった。間もなく高速の入口に入る。
俺は運転に集中した。


(…今、どうしてるんやろ…)

しばらくして車の流れにのり、俺はその後の夏生がどうしているか、思いを巡らせた。
夏生は、夫が転勤前の研修受講のため、あの日から2日間出張だと言っていた。だから朝まで一緒に居ることができた。
一日ほど余裕があったとはいえ、夫と対面したとき、何事もなく接することができたのだろうか。

煙草を吸わなくなった理由は、もう一つある。
俺もあの日は一日出張と偽り、妻を実家に預けていた。
家に帰ってから迎えに行く予定だった。
夏生を見送り、公園で少し冷静になって、朝のラッシュに巻き込まれないように電車で移動する。
家に着き、キッチンの椅子に鞄と上着を置き、ソファに体を投げ出す。
ネクタイを緩めた。
充実した濃密な時間を過ごしたのに、心は喪失感しかなかった。

しばらくうとうとしていたようだ。午後3時前だった。
軽くシャワーを浴び、妻を迎えに行く。

妻の実家は家から車で30分ほどのところにある。
俺は頭の中を切り換えた。
実家に着いて、妻と義母に笑顔で迎えられた。何かあるようだ。
客間に通され、義母がお茶とお菓子を持ってきた。

「…何かあった?」

妻と義母は顔を見合わせ、にっこり微笑んだ。

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