《MUMEI》

私はココアをひと口飲んだ。
千秋もドリンクホルダーからコーヒーを取り、飲んだ。
いつもなら、ここで煙草がでてくるのだが、今日は窓の外を見ている。

「…どうしたん?」
「ん?」
「いつもやったら、煙草、」
「ああ、…俺、煙草吸うの止めてん。」
「え?」

驚いた。自分ではヘビースモーカーじゃないと思っているみたいだが、千秋は煙草がないとイライラすることが多かった。

「…子供できてな。」

予想外のカミングアウトだった。
千秋が子供の頃にかかった病気が原因で、子供が出来にくいことは知っている。
妻はそれを承知で結婚してくれた、と言っていた。
できる確率は低くても、できないわけじゃない、と。
千秋自身も、できれば欲しいと願っていた。

「…そうなんや。おめでとう。」

私は極めて平静を装っていたが、内心穏やかではなかった。
あの日の後、私は出張から戻った夫とセックスした。
体の熱りがおさまらなかった。
あの夜のことも、千秋のことも、忘れたかった。
産婦人科で診察を受け、妊娠が確定したとき、妊娠周期を遡ると、ちょうどその辺りの日になった。
千秋は最初は体外に射精し、最後はコンドームをつけていた。
千秋の身体的事情から、私は夫の子供だと確信していた。
避妊に失敗したとは思えない。
だが確証はない。

「…元気やった?」
「…うん、何とかやってるよ。」

私がいま考えていることを、千秋に悟られてはいけない。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

俺は妻を許せるか、まだ迷っていた。
確かに俺は、妻が他の男と手をつないで歩く姿を見た。
しかし、実際に不貞の現場を押さえたわけではない。
妻はいつも変わらず俺に尽してくれている。
不信な行動もない。
俺の見間違いだったのか。

「…何かあった?」
「え?」
「千秋、迷ってるときは、ようやるから。」

そういって夏生は、ココアのプルトップを弾き出した。
俺は我に返り、プルトップを弾くのを止めた。
思いきって妻のことを相談してみようか。
…いや、あれは俺の心のうちにしまっておくと決めた。

「…いや。」

俺は努めて笑顔で、夏生のほうを向いた。

「信じて進んだら、ええんとちゃう?」
「ん?」
「自分が選んだ答えを、信じて進めばええんとちゃうかな。」

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