《MUMEI》
◇代償◆
夏が、もう終わりを告げようとしている。
あれからもう一年経つのか。

初めは夏生のこと、あの夜のことを忘れることができなかった。
諦めていた子供ができたことで、心の支えができた。
妻を改めて大切に想った。
このまま、普通に幸せに生きて行くんだと思っていた。
…あの日までは。

ベビーベッドの上で、子供がおとなしく眠っている。
そろそろ窓を閉めたほうがよさそうだ。
網戸越しでも、今日の月は美しかった。
闇を明るく照らす月。
…俺の月は、今はもういない。

偶然夏生と再会したとき、俺は妻のことを相談するかどうか迷って、結局自分の胸にしまいこんだ。
思えば、あのとき相談していれば、何かが変わっていたかもしれない。

妻が若い男と逢っていた現場を見てから、妻の俺に尽す態度でそのことを気にしないようにしていたが、心に少しひっかかったまま、揉み消すことができないでいた。
妻といる時間が長いと、何か不本意なことを言ってしまいそうで、平日は残業するか、誰かを誘って飲みに行くことが多かった。
そしてあの日…

俺と同僚は、次の日の顧客先でのプレゼン資料に、大幅に修正が入り、切羽詰まっていた。
作業が中盤に入ったとき、携帯電話が鳴った。
義母からだった。

妻が事故に遭い、病院へ搬送されたのだ。

俺は同僚に後を任せ、急いで病院へ向かった。
病院には、義母の知らせで義父と俺の両親もいた。
義母は泣き崩れ、義父は落胆していた。

親父が状況を話してくれた。
妻は、義母と一緒に夕食の材料を買った帰り道で、飛び出した子供を避けた車に跳ねられた。
救急車の中では意識は少しあったが、既に手の施しようがなかったらしい。
奇跡的に子供は無事だった。
妻が必死でお腹をかばっていたため、助かったのだ。
搬送中も義母に、赤ちゃんを助けて、と必死で頼んでいたそうだ。


生まれてきた子供は、俺にそっくりだった。
妻が本当に俺を裏切ったのかどうかわからないし、もうどうでもよかった。
妻の葬儀が終わって家族だけになったとき、義母が生前の妻のことを話してくれた。

妻は、俺に内緒で診療内科に通っていたらしい。
子供をつくるためいろいろ試したことが、妻の精神的ストレスになっていたのだ。

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