《MUMEI》

 「雪月、李桂さん。お帰りなさい」
怪我人を雪月の連れてきた医者に全て任せ、二人は取り敢えず事の整理をしようと雪月邸へと戻ってきていた
雪乃の可愛らしい声に出迎えられ、縁側へと腰を降ろすなり
どちらともなく深々しい溜息だ
疲れている様子の二人を気遣って、雪乃はその二人の前へ黒蜜のかかったところてんを出してやる
「甘いもの、どうぞ。疲れた身体と頭にはこれが一番です」
その心配りに感謝の意を示してやり一口
程良い甘さに、疲れが幾分か和らいでいった
糖分に助けられ、止まっていた思考がまた考える事を始め、だがどう考えても現状を把握・理解する事はどうしても叶わない
つくづく頭脳労働に適していない己の脳ミソに、軽く舌を打つ
脳ミソ自体が考える事を放棄してしまい、何の仮定すら立てられなかった
「訳が解らん」
考える事が最早無駄だというのであれば、取り敢えずはやめてしまおうと思考を一時中断し、李桂は重たげに腰を上げる
帰るのかとの雪月からの問う声に短い返事を返し、雪乃へはところてんの礼を一言伝えそこを辞していた
ヒトの賑わう表通りを帰路に選び
ひどく穏やかにそこを通り過ぎていく
「……何やら随分と思い悩んでおるようですな、御住職」
途中、傍らからの声に引き留められ、脚を無意識に止めた
そちらへと向き直れば、そこに一人の老婆が立っていて
見ればその両の手は全ての指を失っていた
「……バァさん。テメェ、何モンだ?」
指がない
今の時分、その事がひどく気に掛ってしまいつい警戒してしまう
問うて尋ねる声に、訝し気なソレが混じってしまうのも無理のない事だった
「私の姿が、その様に警戒なさるほど奇怪ですかな?」
別段気に掛ける風でもなく朗らかに笑う老婆
一歩また一歩と、ゆっくりとした足取りで李桂へと歩み寄って行く
「恐がる必要などありません。指斬り様は、救いなのですから。その為に私は全ての指を捧げたのです」
口元に厭らしい笑みを浮かべ
その直後、老婆の面の皮が突然に歪む事を始める
ヒトのそれではないものへと変化し、見るに苦しい程の醜態
李桂は咄嗟に身を構えていた
「逆らうべきではないのですよ。全ては決められた(お約束)なのですから」
「それは、俺に対する忠告か?」
「ええ。今身を引けば指斬り様はお許し下さいます」
「冗談ぬかせ。馬鹿じゃねぇのか」
「そう、ですか。それならば代わりに貴方の指を捧げなさいませ!さすれば指斬り様も――」
結局、何の文句を返した所で会話は振り出しへ
進展する事を覚えないそのやり取りにやはり飽き
一方的に話を打ち切ると李桂は歩く事を始める
「……飽く迄も従うつもりはないという訳ですか。いいでしょう」
李桂の背へと向けられる老婆の声
突然、目に見て取れる程に空気が歪み始めて
そして地面に、大量の人差し指が次々に現れた
「人差し指はヒトを刺す指。指斬り様の邪魔をする者は、殺します」
言って終わりに、生える人差し指全てが刃物の様な硬質のソレへと変わり
指そのものがまるで意思を持ったかの様に地面を這いながら李桂へと近く寄ってくる
ミミズの大群の様なソレに、李桂は不快感を顕にし、そして懐から札を取って出した
口早に経を唱えながら
その直後、李桂は派手に土を蹴り上げ迫ってくる指の群れを飛んで越え
おの中心に居る老婆の額へとその札を押しつけてやると、経を唱えながら印を結ぶ
「私を、封じるおつもりですか?御住職。無駄です、私はヒトです。モノノケなどではないのだから」
嘲笑う相手へ
だが李桂は少しの動揺も見せる事はせず、口元に笑みすら浮かべながら
徐に、札を二つに引き裂いていた
「とうとう万策尽きて自暴自棄にでもなられましたか。最初から無駄な事などせず指切り様に従っていれば良い――」
「喧しいわ」
薄ら笑いを浮かべたまま、李桂は素早く相手の懐へと入り込むと、その両の手に引き裂いた札を半枚ずつ貼り付ける
再度、経を唱えれば
瞬間に、その札は細い霊糸へと変化し、老婆の腕を束縛していた

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