《MUMEI》

 
 そんな冴えない朝にも、雄介にとって楽しみなイベントがひとつだけあった。
次女の美鈴を起こす時間だ。

美鈴は小学二年生。
家庭の中で孤立寸前になってしまった雄介にとって、何の駆け引きもなく会話のできる美鈴は自分が一家の主であることを実感させてくれる唯一の存在だった。

 雄介は一通りの出勤の身支度を整えて美鈴の眠っている部屋へと向かった。


「み・す・ず・しゃん!」


 最早さっきまでとは声のトーンからして違っていた…。

 リビングでその声を聞いていた美香が『ウザ…』とばかりに首筋をボリボリと掻く真似をする。

そんなことはどこ吹く風と、雄介は続けた。


「ほら、美鈴。もう起きる時間だよ」


 その声にやっと美鈴が伸びをし始める。


「…おはよう、パパ…」


「ん、おはよ。今日の時間割はちゃんと出来てる?」


「うん。昨日ぜんぶやったよ」


「そっか。えらいね。
じゃ、パパもお仕事頑張ってくるから、美鈴も学校でしっかりお勉強するんだよ」


「うん。早く帰ってきてね、パパ」

と美鈴が雄介の首に腕を回し『ちゅっ!』と音を立てて頬にキスをする。

 十数年前なら“行ってらっしゃい”のキスの相手は妻の美佐代だったのだが…

 今の雄介にとってそれはあまりにも遠い過去の出来事に思えて仕方がなかった。

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