《MUMEI》
離婚
早朝から、しとしと音もなく降り続いている雨の音があたしの胸の奥を痺れさせていた。
あの日もこんな雨の日だった。
あたしは、八年間共に時を過ごした最愛の夫と離婚した。
どろどろの泥試合を経て、心身共に疲れ果てた私達だった。
最後の決心をして、離婚届けに判子を押し、入籍した時と同じに最後の終焉書を区役所に提出するのも一緒に行こうと提案したあたしに、しぶしぶ夫が付き合ってくれる事になった。
待ち合わせた喫茶店で、夫を待っている間に、窓に振り注ぐ銀の雫をただじっと眺めて考えていた。
どうして私達は、こうなってしまったのだろうか。三杯目のブラックコーヒーを無理矢理、喉の奥に流し込むと胃がきりきりと痛み出した。時計の時を刻む音が鮮明にあたしの頭に響き渡る。二人の審判を決定する時間が近づく音にあたしは、あたしは、ただ脅えながら小刻みに震えていた。
三十分が過ぎ、五十分が過ぎても夫は現れなかった。
夫が現れたら、出来るだけ笑って恨み言は言わないようにしよう。最後くらいカッコよく映画のようにキスのひとつでもして後ろを振り返らず、涙も流さず微笑んで見せよう。
そう意気込んでいたあたしの思いは、ただの自己満足の幻想に過ぎなかったのだ。
あたしは重い腰をあげひとり、降りの激しくなった雨の中、区役所へと向かった。
「河瀬さん」と名前を呼ばれて立ち上がった。あたしの旧姓だった。戸惑いはなかった。八年振りの名字は、妙にしっくりと馴染み違和感を感じなかった。何だか胸の支えが取れたような気持ちになった。
用事が終わり、そそくさと扉を開けると、まだ雨が降っており、未練がましい女の涙みたいだと鬱陶しい灰色の空を睨みつけた。
傘を差し、再び元の道を足早に歩いていた。歩くのは厭ではなかったがどうして今日に限って、スニーカーではなく、パンプスを履いて来たのだろう。ストッキングに泥の撥ね上がりをつけてしまい、最後の最後までカッコ悪い自分をDaleteキィで、削除したかった。
歩いているうちに雨が上がり、うっすらと薄日が透けて見えた。
思った程、感慨がなかった。淋しくもないし、悲しくもない。特にやる気が出た訳でもなく、かといって無気力になった訳でも自暴自棄になった訳でもなかった。現時点でのあたしの現実は、『岡崎』から『河瀬』に戻った。ただ、それだけの事だった。
幹線道路沿いの何の情緒もない道路をただひたすらパンプスの踵をカツカツならしながら駅に向かって歩き続けた。
ああ。神様。
ああ。どうか、どうかあたし。
これからの先の人生、他人を愛し過ぎないように。
愛しすぎて、自分も相手もがんじがらめにしないように。
あたしは、愛しすぎると相手を酸欠になる程、追い詰めてしまう。相手が苦しがっている事さえ気が付かない。だからもう二度と誰かを愛さない。諦めると決めたらちゃんと諦める。二度と会わないと決めたら本当に二度と会わない。
あたしがあたしを裏切る事がないように。他人を愛するくらいなら自分自身を愛するように。
もう、愛なんかいらない。
あの時のほろにがい記憶が三年たった今、蘇ってきた。きっとあの時と同じ駅に下りて、
悠也と待ち合わせしていたからだろう。
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