《MUMEI》 最後の金曜日あのひとがニューヨークへ旅立ってから、もう何年経ったのだろう。 お互いの夢のために別れを決意したあの日のことを、今でもはっきり覚えている。 別れ際、あのひとは私に言った。 −−必ず迎えに行く。嫌がっても絶対、連れていくから。 私は何も答えなかった。頷くこともしなかった。 その言葉の真意を理解できるほど、あの頃の私は大人ではなかった。 自分の想いを、ひたすらまっすぐぶつけてくるあのひとに、ただ圧倒されていたんだ−−−。 夕方ということもあり、百貨店化粧品売場は、少しずつ賑わいを見せていた。 そんな中で。 「おめでとう!!」 帰り際に小さな花束を手渡され、ささやかなお祝いの言葉を貰った。私は照れながら「ありがとう」と素直に喜ぶ。 そんな私の前に上司の佐々木チーフが、満面の笑顔で進み出る。いつも恐い顔をしている彼女が、こんなに穏やかな表情を浮かべているのを目の当たりにするのは、私がこの化粧品会社に入社してから初めてのことだったかもしれない。 「本当におめでとう」 佐々木チーフは優しい声で、そう言った。 「色々あったけど、一緒に働けて楽しかったわよ」 その台詞を聞いて、仕事の上で、今まで辛かったことを走馬灯のように思い出し、思わず目頭が熱くなる。 やっとのことで、「ありがとうございます…」とお礼をのべると、チーフは豪快に笑った。 「しんみりしないでよ!明るい門出なんだから!」 それでも顔を上げられない私に、今度は後輩の原田が嬉々として身を乗り出してくる。 「式はいつなんですか〜?」 相変わらず気の抜けた喋り方だ。彼女が入社してから、ずっとそのことを注意し続けていたが、どうやら改善出来なかったようだ。 それは心残りだ、と思いながら、「半年先くらいかな」と正直に答える。 「実はまだ、ちゃんと決めてないの。お互い忙しくて」 すかさず佐々木チーフが口を挟む。 「そういうことは、さっさと決めなさいよ。いつも順序良く行動しなさいって言ってるでしょ」 業務上のような小言をいただいて、私はつい萎縮する。へこんでいる私の様子を見て、チーフは可笑しそうに言った。 「こんなこと言うのも、今日が最後なんだから。有り難く聞いておきなさいよ」 最後。 そう…最後なのだ。 今日、私は美容部員として5年間勤めたこの化粧品会社を、婚約を機に退職する。 その時、客がやって来たようで、原田が独特の甲高い声で、「いらっしゃいませ〜」と言いながら、スキンケアコーナーへ向かって行った。 接客を始めた原田を見つめた後、私はチーフの顔を見上げた。 それから、表情を引き締めて、はっきりとした口調で言った。 「今までお世話になりました」 深々と頭を下げると、チーフは穏やかな声で「お幸せに」と呟いた。 私は微笑み、「失礼いたします!」と元気良く挨拶すると、ボロボロになった私物バッグと花束を抱え、颯爽と売場を後にした。 次へ |
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