《MUMEI》
父の背中、母の涙
 橘と名乗った男の車で私は家まで送ってもらった。辺りは漆黒の闇で、弓張りの月が天を射抜いている。その月を窓越しに見ながら、私は車に揺られていた。
 車は家の前で止まる。後部座席に座っていた私がドアを開け、降りようとした時だった。

「明日、朝の八時に迎えに行く」
 バックミラーを覗きながら、彼が声を掛ける。
「解りました」、と返事をした。
「自分の口から御両親には伝えておけ」
「はい。それでは」
「ああ、またな」

 徐々に小さくなる黒いセダンのテールランプ。それを眺めながら、溜息をつく。救世主か、と呟いて、私は玄関の扉を引いた。

「ただいま」

 奥から直ぐに母が出て来る。
「何処行ってたのよ!」
「ちょっとね」
「連絡くらい入れなさいよ」
「ゴメン」

 両親は姉が死んでから、過保護になった。それを欝陶しく感じたこともある。だけど、仕方ないことだなって思っていた。
 私までこの家を出て、救世主として戦う。そのことを両親に伝えなければならない。やはり、躊躇いは拭えなかった。

 リビングに行くと父がテレビを見ている。私の後に続いて、母がリビングに入る。

「花音、ご飯食べなさい」

「それより、二人とも聞いて」

「私、救世主になった」

 一瞬、部屋の空気が凍り付いた。父は何も言わず、テレビを見つめている。母は驚いた顔をして、私を見ていた。予想していたけど、やはり辛い。
 暫くの間、リビングにはテレビから流れる音だけが響いていた。

「花音、本当なの!?」
 母は私の肩を掴むと、激しく揺する。何度も何度も。涙ぐむ母の瞳には、私が映っていた。父は相変わらず、何も言わない。

「本当だよ。明日から、私は世界を救う」
 渇いた音が響く。母の平手が私の左頬を叩いた。痛かった。これが母の心の痛みか。
「お母さんは、許しませんからね!」
 泣きながら、母は私を睨んでいた。

「母さんと父さんが反対しても、私行くから」

「アンタって子は!」
 母がもう一度、その手を振り上げる。また叩かれる、と私が身体に力を入れた時だった。
「花音」、と父が私の名前を呼んだ。

「それはお前が決めたことなのか?」

「はい」

「そうか」
 それだけ言った父の背中は何処か悲しげだった。初めて、その背中が小さく見える。母は泣いていた。ゴメンね、と心の中で呟き、私は自室に入る。そして、そのままベッドに寝転んだ。

前へ |次へ


作品目次へ
感想掲示板へ
携帯小説検索(ランキング)へ
栞の一覧へ
この小説は無銘文庫を利用して執筆されています。無銘文庫は誰でも作家になれる無料の携帯・スマートフォン小説サイトです!
新規作家登録する

携帯小説の
無銘文庫