《MUMEI》
父の背中、母の涙
 真剣を振る父の、一振り一振りに気迫が篭っていた。不思議と手に汗が滲む。あんな父を見るのは久しぶりだ。姉さんの死を知らされた翌日の朝以来か。

 私は道場の中へ入り、入口近くに正座した。父の動きを見る。道場の床は冷たい。その冷たさが、私の五感を研ぎ澄ませる。静寂に包まれた道場内。懐かしい緊張感が、変わらずに其処にある。

 タン、と踏み込み、太刀を振る。その度に風を切る音がして、道場の床が軋んだ。懐かしいリズムだ。昔はよく耳にしていた音。父の音だ。

 上段、下段、切り上げ、中段。何度も見て来た父の剣。もう一度、しっかり見よう。そう思うのだけど、視界はぼやけ、温かい雫が頬を伝う。これが最後かもしれない。そう思うと、不思議と涙が出る。無心に太刀を振る父の背中を、私は見つめ続けた。

 刀身を鞘に戻し、父は道場の入口正面の神棚に深く一礼する。くるり、と踵を返した父が私に気付いた。一瞬、父は驚いた顔をしたが、直ぐにいつもの険しい顔に戻る。

「花音」

「父さん……」
 涙声で返す。恐る恐る見上げた父は、険しい眼差しで私を見ていた。

「本当に行くのか?」

「はい」

 暫くの間を置き、父は頷く。
「解った。お前の決めた道だ。真っ直ぐ歩め」

「はい」

「そうだ。これを……」、と父は再び踵を返し、神棚の方へ向かう。

 神棚から、父は一振りの太刀を降ろした。その太刀を両手で抱え、父は私の前に立つ。真剣な双眸が、私を見ていた。この太刀は……。

「持って行きなさい」
 そう言って、父は白鞘に収められた太刀を差し出す。

「でも、これは……」

「これはこういう時の為にある」
 おもむろに父はその太刀を鞘から抜く。清らかな白刃が朝日に映える。三本杉の波紋、切っ先三寸に、見事な中反りの、三尺三寸の大太刀。本当に綺麗な太刀だ。

 太刀を鞘に収め、父は私にそれを差し出した。それを受け取り、深く頭を下げる。その太刀はずっしりと重い。
「征きなさい」
「はい!」

 吹き抜ける風は冷たく、柔らかな朝の光が私たちを照らしていた。鳥たちの囀りが、遠くの方から聞こえる。

 それから道場を出て母屋へ。あの太刀を紫の鞘袋に入れ、簡単に荷物をまとめる。そして、向かった先はリビング。キッチンと一間続きになっている其処に、母は居た。
 いつもの様にキッチンで朝食の仕度をする母の姿が、何故か寂しく見える。

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