《MUMEI》
父の背中、母の涙
「母さん」
 声を掛けると、包丁を握っていた母の手が止まった。ゆっくりと私の方を向いて、いつもの笑顔を咲かせる。

「おはよう、カノ」
 優しく微笑む母の目が少し腫れている。それに、瞳が潤んでいる。
 泣いてたんだ、母さん。ゴメンね、親不孝な娘で。

「おはよう」

「行くのね」
 寂しそうに母が零す。私の大嫌いなセロリを刻む音が静かに響いていた。

 昔はセロリを残して、よく怒られたっけ。ちゃんと食べなさいって……。私が泣き出すと、仕方ないって姉さんが代わりに食べてくれた。

「うん」

「気をつけるのよ」

 もう母の笑顔を見るのも、これが最後かもしれない。そう思うとまた涙が零れてきた。

 小さい頃、姉さんと母と私の三人で、よく手を繋いで歩いたっけ。母はいつも私の歩調に合わせてくれて、私が疲れたと言うとおんぶしてくれて。私は小さな手で母にしがみついた。母の背中は温かくて、いつも、いつの間にか寝て仕舞った。


「うん」

 母の顔を見るのが辛くて、私は母に背を向ける。涙が止まらなかった。後ろでは、母が私の為にお弁当を作ってくれている。久しぶりだな、母のお弁当。
 高校生になってからは、ずっと高校の売店でパンを買っていたから。今、思えば、毎日作ってもらっていたらな、なんて。

「辛くても、頑張るのよ」

 母の声が震えている。白いレースのカーテンの、その向こうに見える空は、憎らしい程の皐月晴れ。

「うん」

 見渡したリビングは、懐かしい我が家で。其処にあるブラウン管テレビの上の写真立てには、家族四人の写真。無邪気に笑う私と姉さんに、無愛想な父、そして、それを見て微笑む母。

「はい。お弁当」

 後ろを振り向くと、懐かしい黒と白のチェックに包まれた少し小さいお弁当。それを持つ母は、あの写真見たいに優しく微笑んでいた。

「ありがとう」

 お弁当を受け取って、玄関へ。母が後ろから着いてくる。見送りなんて、少し恥ずかしい。

 靴紐を結んで立ち上がる。必要なものが入ったバッグを持ち、鞘袋を背負う。最後に母のお弁当を母に渡して貰って、私は扉の取っ手に手を掛けた。

「いってらっしゃい」

「いってきます」

 扉を開けて、外へ歩み出そうとした時、後ろから母が私を呼んだ。

「カノ……」

「ん?」

「ちゃんとセロリ食べるのよ?」

「……うん」

「じゃあ、征ってきます」

「いってらっしゃい」

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