《MUMEI》
父の背中、母の涙
 父の背中と、母の涙に見送られ、別れを告げる我が家。一度、振り向いた其処は、朝露が太陽の光を受けて、キラキラと輝いていた。

 いつ帰れるか判らない我が家だ。しっかりと目に焼き付けておこう。姉さんの死と、母の笑顔と、父の思いをその側に添えて。いつまでも消えない、心の中の写真として。


 家を出ると、其処にはあの黒いセダンが停まっていた。それを見ると少し不安になる。だけど、私は今日から救世主。もう泣いてなんかいられない。

 うん、と頷いて、私は車の後部座席に乗り込んだ。黒いサングラスに黒いスーツを着た橘さんが、煙草を蒸していた。

「行くぞ?」

「はい」

「ちゃんと言って来たか?」

「はい」

「そうか」

 車のエンジンが点される。静かな朝に、低いエンジン音が轟いた。そして、車は徐々に速度を上げていく。それに伴って、私の家が小さくなる。


 父さん、母さん、姉さん……。
 私、頑張るよ。
 必ずこの世界を救って見せる。

 冬峰花音。今日から私は救世主。


 見慣れた街並みを、黒いセダンが駆け抜ける。窓の外には、何気ないこの街の朝が広がる。

「あ……」、と呟いて橘さんがダッシュボードを空けた。運転しながら、左手でごそごそ、と何かを探す。

 橘さんが取り出したのは、黒いアイマスク。またか、と私は溜息をついた。

「……あ」、と再び彼は呟いて、アイマスクをダッシュボードに放り、ダッシュボードを閉めた。

「もう必要無いんだな」
 橘さんが苦笑する。

「はい。私、救世主ですから」

 ハハ、と笑って橘さんは「よろしくな。救世主さん」

 私を乗せて、黒いセダンは街を駆け抜ける。辿り着いた先にある現実を、この時の私はまだ知らなかった。

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