《MUMEI》

玲子と約束したお店は、ちょっとお洒落な雰囲気のバーだった。学生の頃から、彼女と会う時はいつもそのバーを利用していた。

慌ただしく店内に駆け込むと、店員に連れられ、店の奥にある個室まで案内された。
店員は慣れたようにドアを開くと、その中で椅子に座り、メニューを眺めて静かに待っていた玲子が、ふと顔を上げる。
彼女は私の顔を見ると、笑顔を見せた。

「お疲れ。遅かったね」

「残業?」と声をかけてくる。私は乱れた呼吸を整えながら、「そんなとこかな」と曖昧に答えて、個室の中へ入った。店員も私の後に続き、部屋の奥に畳んであった荷物入れを開いて、私の椅子の横に置く。
私はお礼を言い、大きな荷物をその中に入れ、座るために自分の椅子を勢いよく引いた。
私の様子を黙って見ていた玲子は半眼になり、言った。

「何、その荷物。家出みたいよ?」

私は私物で無惨に膨れ上がったトートバッグを一度見遣ってから、玲子の顔を見た。

「…そんなとこかな」

私の適当な返事に、玲子は吹き出して笑った。



店員に簡単な食事とアルコールを頼むと、私達はすぐに談笑を始めた。

お互いの近況報告に始まり、仕事の愚痴や家族のユニークな話まで話題を広げた。
玲子は学校を卒業してから、すぐパリに数年間留学し、帰国後は外国人向けの観光案内をしていた。

特に玲子と会うのは久しぶりだったから、話が尽きることはなく、本当に夢中になって会話を続けた。
そのうち店員がオーダーした、生ビールを運んできて、私達の前に置いて出て行った。
玲子はジョッキを手に取ると、「美味しそう!」とはしゃいだ声を上げ、嬉しそうにそれを掲げて見せた。私もジョッキを持ち上げる。
それから玲子は、わざとらしくコホンと軽く咳ばらいをし、私の目を覗き込む。

「それじゃ、瑶子の婚約を祝して」

「かんぱーい!?」

私は元気な声で玲子に合わせて、ジョッキを軽くぶつけた。ゴツンと重い音とともに、その衝撃を感じながら、私と玲子は唇にジョッキを寄せ、ぐいっと景気よく、ビールを喉へ流し込む。
ひんやりとした液体が喉をゆっくり下降していくのが、とても気持ちがよかった。

「美味しい!」

一気に半分くらいビールを飲んで、ジョッキをテーブルに戻した私は明るく言った。玲子も満足げに微笑み、「やっぱりビールは美味いね〜!」とコメントする。

じきに注文した食事やらツマミやらがどんどん運ばれてきて、瞬く間にテーブルは様々な料理で彩られた。

私達は「いただきます!」と挨拶をしてから、それぞれ気になる料理をつまみはじめる。私は仕事帰りということもあり、お腹が殺人的に空いていて、夢中になって食事を貪った。
そんな、向かいの私を眺めて、玲子が笑いながら尋ねる。

「相手の人、高校の同級生だっけ?」

『相手の人』、というのは、恐らく私の婚約者の事だろう。

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