《MUMEI》
別離
山犬がにじり寄る。麻美と義六は動くに動けない。
逃げれば追いかけられて背後から咬まれる。
人間は足の速さでは到底犬には勝てない。
睨み合いは続いた。山犬も鋭く光る刀が凶器であることはわかっているのか。
一瞬の隙も見せられない。
「どうする義六?」
「来たら斬る」
「もう一匹は?」
「麻美頼む」
「どうやって?」麻美は怒った。
そのとき。
びくんと山犬が飛び跳ねるように後退した。
二匹とも上のほうを見て恐怖の色を顔に浮かべると、一目散に逃走した。
「仲間を呼びに行ったか?」
「義六、現実を直視しなさい。後ろに何かいるんでしょ」
山犬が逃げるほどのものとはいったい…。
「麻美、俺は天狗とかお化けは苦手なんだ。代わりに後ろを見てくれないか」
「よくそれで山賊が務まっていたわね」
麻美は警戒しながら後ろを見た。何もいない。木の上も見てみたが、猿一匹いない。
「大丈夫よ、木の上に山姥がいるだけ」
「おい」
二人は再び早足で進んだ。
「義六、なぜちゃんとした山道を行かないの?」
「裏道だ。それに山犬よりも怖い官軍に追いつかれたら困るからな」
官軍と聞いて、麻美はやや明るい気持ちになった。
官軍が山賊の頭にさらわれた「麻美隊長」を見捨てるはずがない。
しかし山道は段々と険しさを増した。
断崖絶壁に近い危ない道を見て、麻美は立ち止まった。
「義六、本気でここを通る気?」
「このくらいは朝飯前だ」
麻美はそうは思わなかった。落ちたらまず助からない高さだ。
「大丈夫だ麻美。俺を信じろ。引き返してまた山犬と出くわすほうが危険だ」
確かに山犬は危ない。それに山犬が逃げるほどの何者かがいることも気になる。
麻美は意を決して義六に続いた。
慎重に一歩一歩進む。義六が足を滑らせた。
「あっ」
「気をつけなよ、何が朝飯前だ」
麻美に叱られて義六は笑った。
二人はゆっくり進む。
「あああ!」
今度は麻美の足が滑り、下に落ちかけた。義六が麻美の手を握る。
「麻美!」
麻美は下を見て死の恐怖に体が硬直した。
「麻美!」
麻美は義六の手を強く握ると、哀願に満ちた目で言った。
「離さないで」
「当たり前だばか!」
そんなお願いは無用とばかり、義六は自慢の怪力で麻美を引っ張り上げた。
麻美も自らよじ登り、九死に一生。
「はあ、はあ、はあ…」
麻美は泣きそうな顔で息を荒く吐くと、義六のほうを見た。
義六もしゃがんで同じ目の高さで見つめている。
「大丈夫か麻美」
麻美はバッと抱きついた。義六は優しい笑顔のまま、麻美の肩を静かに抱きしめた。
再び安全な山道を進む二人。義六が急に走り出した。
「ん?」
麻美は立ち止まる。義六は笑顔で振り向いた。
「麻美」
「どうしたの?」
「山から出たぞ」
「え?」
麻美も走った。広い道に出た。義六は笑顔だが、麻美は真顔だ。
「さあ、宿を探そう」
「義六」
「麻美、約束は忘れてないだろうな?」
「もちろんよ」
「怖じ気づいたか?」
「まさか。あなたは命の恩人だし」
義六も真顔になった。
「麻美、それは関係ない。俺は心底おまえに惚れたから抱きたいし、妻にしたい。でも麻美が嫌なら、諦める」
山賊とは思えない言葉に、麻美は驚いた。
「追い剥ぎじゃないって、本当だったのね」
義六は笑顔を向けたまま、否定も肯定もしなかった。
ゆっくり近づき、愛しの麻美の手を取ろうとするが、すぐに後退し、木陰に身を隠した。
「何?」
「旗が見えた」
麻美も辺りを見渡した。官軍だ。かなりの人数がこちらへ向かって来る。
「麻美」義六は両手首を差し出した。「縄だ」
「まさか」
「偉くなれ」
義六の快晴のような笑顔が眩しい。
麻美は義六の胸板を両手で突いた。
「麻美?」
「行って」
「麻美…」
「早く!」
義六は麻美の顔を、姿を目に焼き付けた。
「忘れねえ」
麻美も目を赤く腫らしながら、頷いた。

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