《MUMEI》 私はゆっくり瞬いた。それから再びグラスを見つめる。 どうだろう。 今日で終わったものの、毎朝キレイに身支度して出勤して、にこやかに接客して商品を売って、上司に怒られたり褒められたりして、家に帰れば化粧を落とす気力も無く、ベットに倒れ込むように眠りについて、また朝が来て…。 その繰り返しだった。 学生の時のような夢中になって何かに打ち込む感じは全くなく、ただ毎日が義務のようで、息苦しく感じていたのは事実だ。 でも、それが嫌だったわけじゃ、ない。 仕事から学ぶことは沢山あったし、何より勉学とは違った達成感があった。 「よく、分からない」 私は目を伏せた。それが正直な気持ちだった。 少し間を置いてから、玲子のため息が微かに聞こえた。 「そういう言葉を言う時は、たいてい『今』に不満がある時なのよ」 不満…? 仕事を辞め、これから私は結婚する。世間で言われる所の『女としての最大の幸せ』を享受することを、近い将来、約束されているのだ。 そこで、どうして『不満』が出てくるのだろう。 玲子の言葉は、さらに続く。 「…心のどこかで、何か後悔している事があるんじゃないの?」 『後悔』、という言葉が、やけに耳に残った。 仕事を辞めたこと?流れで婚約したこと? それとも…。 突然、瞼の裏に浮かび上がった、『あのひと』の顔。 優しくて暖かくて、大好きだった−−−。 色々思いを巡らせて、そして、玲子が言いたいことが、何となく、分かった。 私はゆっくり目を開く。 そして、「玲子には、分からないよ」と呟いた。そして玲子の端正な顔立ちをじっと見つめる。彼女はただ真剣な眼差しを私に向けていた。 沈黙が流れた後、私は口を開いた。 「マリッジブルーの、私の気持ちなんか…」 私の台詞に、独身の玲子はカチンときたのか、途端に眉を吊り上げて「なんなの、それー!?」と叫ぶように言った。彼女のその姿を見て、私は大声で笑う。 個室の中でギャーギャー騒ぎながら、そんな間にも、どんどん夜は更けていった−−−。 記憶の彼方から、懐かしい声が響いてくる。 −−嗅覚は脳の記憶の回路と直結してるんだってさ。 −−…直結してるって、どういうこと? −−何かの香りを嗅いだ拍子に、今まですっかり忘れてた記憶を、突然思い出したりするんだって。瑶子も経験あるだろ? −−どうかなぁ…?そう言われてみれば、そうかもしれないけど。 −−…だから、これ、やるよ。『Week-End』っていう香水なんだ。週末をゆっくり過ごすイメージなんだってさ。 −−香水なんて…何でまた、そんなお洒落なもの…。 −−瑶子が俺のこと、ずっと忘れないように。その『Week-End』の香りで、今日の事をすぐに思い出せるように…。 切なさに胸が締め付けられる。 心がちぎれそうに、痛む。 何を間違ってしまったのか。 どうして、心が通わなくなってしまったのか。 私達の絆は、あんなにも固く、結ばれていた筈だったのに……。 前へ |次へ |
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