《MUMEI》
香りと、想い出と
一階のフロアは化粧品売場が大半を占めていて、それはどこの百貨店でもほぼ共通のつくりだ。
私は自分が働いていた化粧品メーカーがこの百貨店に入っているのを知っていた。そして、同期がここに配属されていることも。
運よく同期に会えれば、あわよくば社員割引で立て替えて貰い、安く買おうと思ったのだ。
社販が出来たら、クリーム以外にも化粧水も合わせて頼もうか…と一人で考えながら、フロアをさまよっていると。

ふんわりと柔らかく、優しい香りとともに、女性の穏やかな声が流れ込んできた。

「…櫻井さん?」

突然、名前を呼ばれたので、私は慌てて振り返った。啓介も私と同じように振り返る。
そこは、ちょうどフレグランスコーナーの前で、ディスプレイ台には色とりどりの香水瓶が並んでいた。
この芳しい香りは、ここから流れてきたのだ。
私は視線を巡らせ、そして、その、設えられたカウンターの内側に、女性販売員が一人、私をじっと見つめていることに気づく。
彼女は、私の顔を見ると嬉しそうに笑い、「やっぱり!櫻井さんですよね!?」とはしゃいだ声を上げた。
一瞬、誰だかわからず、私は眉をひそめたが、彼女の左胸に付けられたネームバッヂを見て、「あ!」と声を上げる。

バッヂには『矢代』という文字が、書かれていた。

彼女が、「お忘れですか?前、同じ百貨店だった…」と言いかけたのを、私は勢いよく遮った。

「矢代さん!!久しぶり!元気でした!?」

矢代さんは私が思い出した事で、より嬉しそうに笑って、「はい、相変わらずです」と感じよく受け答えた。
私はカウンターに近寄り、身を乗り出す。

「この百貨店に異動してたんだ〜!?」

私の言葉に矢代さんは素直に頷いた。
啓介は私の隣で、「誰?」と視線だけで問い掛けてくる。

「同じ百貨店で、働いていた方なの」

私は極簡単な言葉で説明した。啓介は分かったのか分からないのか、とても曖昧に「ふぅん…」と唸っただけだった。


矢代さんは、私が昨日まで配属されていた百貨店内のフレグランスコーナーに勤務していた。
社員食堂で何度か相席するうちに仲良くなったのだが、一年くらい前に突然異動してしまったのだ。
特に連絡先を交換していなかったから、一体どこで働いているのか、今まで分からずにいた。


矢代さんはニコニコ笑って、私と啓介の顔を交互に眺めて、「今日はお休みなんですか?」と明るく尋ねた。
私はゆっくり首を振り、微笑んだ。

「実は、仕事、辞めたんです…昨日が最後の出勤で」

矢代さんは本当に驚いたようで、目を大きく見開き、「そうなんですか?」と素っ頓狂な声を上げた。

「全然知りませんでしたぁ〜」

そう言って、啓介の顔を一度見遣ると、何かを察したように、再び私を見つめて笑ったが、それについては、それ以上何も言わず、「ところで」と話題を変えた。

「今日は、お買い物ですか?」

私は頷く。矢代さんは「良いですね〜」と相槌を打った。それを皮切りに、お互い当たり障りのない会話を、どんどん繰り広げる。

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