《MUMEI》

私は、身体が小刻みに震え出すのを感じていた。

知っている。
ウィークエンドも、カップリングフレグランスも。
全部、知っているのだ…。

啓介はいよいよ興味を持ち始めて、「香り、試してもいいですか?」と矢代さんに尋ねた。彼女は快く頷き、カウンターの端に置いてあった細長いムエット(試香紙)を手に取ると、まずはレディースのウィークエンドをムエットに吹き掛けた。

ワイルドローズやレッドシクラメン、ブルーヒヤシンスやアイリス等の、優美な花々が織り成す、官能的な香り。

その甘く濃厚な香りが、私達を包み込む。
懐かしく、そして切ない、香りがした。

「ネクタリンの香りが入っているので、少し甘く感じられるかと思いますが…」

そう言いながら、矢代さんは香りを付けたムエットを、私の方へ差し出し、「どうぞお試し下さい」と言った。
私はゆっくりそれを受け取り、自分の鼻先へ恐る恐る近づけた。


そして、香った瞬時に、『あのひと』の顔が、脳裏を駆け巡る。

『あのひと』のお気に入りだった公園。『あのひと』といつも待ち合わせしたフェテラス。『あのひと』とよく行った海辺。
そして。
『あのひと』が最後に私を連れていってくれた、あの、ジャズバー。

いつか、『嗅覚は脳の記憶の回路と直結してる』と聞いたことがあった。

そして、遠くの方から、私の耳に『あのひと』の声が、緩やかに聞こえてきた。

−−その『Week-End』の香りで、今日の事をすぐに思い出せるように…。


呆然としながら、そして思い知った。
『あのひと』が、未だ私の記憶の中にしっかりと存在していることに。



「瑶子?」



怪訝そうな啓介の声に、私はハッと我に返った。
啓介は心配そうに私の顔を見つめている。

「どうした?顔色悪いぞ?」

「ご気分悪くなりましたか?」

矢代さんも不安げだ。
私は軽く笑って「なんでもない」と小さく答えた。「なんでもないって顔じゃないぞ」と啓介が鋭くつっこんできたが、私は首を振った。

「大丈夫。本当になんでもないの…」

私がそう言い張るので、啓介も矢代さんもそれ以上、何も尋ねなかった。

みんな黙り込み、気まずい空気が立ち込める。

重苦しい沈黙を払拭するように、啓介がわざとらしく明るい声で、「メンズはどんな香りですか?」と矢代さんに話し掛けた。
矢代さんは戸惑いながらも今度はムエットを手に取る事なく、スラスラと答えた。

「レモンやグレープフルーツ、アイビーリーブスなど爽やかなトップノートから、だんだんとラストノートのムスクとハニーの、温かみのある香りに変化していきます」

啓介は「へー」と気のない声で相槌を打つと、再び沈黙が訪れた。

前へ |次へ


作品目次へ
感想掲示板へ
携帯小説検索(ランキング)へ
栞の一覧へ
この小説は無銘文庫を利用して執筆されています。無銘文庫は誰でも作家になれる無料の携帯・スマートフォン小説サイトです!
新規作家登録する

携帯小説の
無銘文庫