《MUMEI》
導かれる記憶
少し間を置いたが気まずさは消えず、仕方なく啓介は、矢代さんに軽く会釈してから私を促してフレグランスコーナーから立ち去ろうとした時、私は顔を上げ矢代さんを見据えて、言った。

「試しても、いいですか?」

悲しいくらい掠れた声に、なってしまった。
啓介は驚いたように私を見る。
突然だったので聞き取れなかったのか、矢代さんは「え?」と驚いたように、軽く目を見張った。私はもう一度、今度ははっきりと言う。

「メンズの香り、試してもいいですか?」

私の言葉を理解した彼女は、「もちろん」と柔らかく微笑み、慣れた手つきで、ウィークエンドのメンズフレグランスをムエットに吹き掛けて、それを寄越した。

この香りは、ナチュラルでフレッシュという言葉がよく似合う。もう少し時間を置くと、オークモスやサンダルウッドの深みのある温かい香りに変化していくのだ…。


ふわりと漂ってきた、その香りは。
遠い記憶の、大好きだった『あのひと』の。


私は切なさに胸を震わせ、そのムエットを矢代さんから受け取った。


ああ、そうだ。
飄々とした『あのひと』はいつも、この香りを身に纏って−−−。


受け取ったムエットを持つ私の手が、震えたまま止まらなかった。
急に目頭が熱を持っているみたいに、熱くなってきた。
気を赦せば涙が零れそうだった。


…どうしてこんなに心が揺れるのだろう。
もうずっと昔に、終わった気持ちの筈なのに。


私は無理に笑顔を作り、精一杯明るい声で、「いい香りですね…」とコメントした。啓介は黙り込んだまま、神妙な面持ちで私の傍に立っていた。矢代さんは、何も答えず、ただ優しい視線を私に向けていた。
何も瞳に映したくなくて、私はゆっくり瞼を閉じた…。




私が『あのひと』と知り合ったのは、私が専門学校の2年生の頃。
場所は他でもなくかつて通っていた、学校のカフェテラスだった。

その日は確か週末で、いつもよりカフェテラスが混雑していたと思う。

午前の授業を終えた私は、昼食を摂る為に、校内のカフェテラスへやって来た。玲子が一緒なら、学校から外へ出て、近くのお店で食事をするのだが、この日、彼女は授業がなかったので、登校していなかった。
一人で外食する気もない私は、カフェで簡単に済ませようと思ったのだ。

売店でサンドイッチを買い、窓側の四人掛けのテーブルに、一つだけ席が空いているのを見つけ、急いでその椅子に座った。

相席している他の三人も、それぞれの課題に追われているらしく、私が空席に座ったことに気づいているのか、いないのか、脇目も振らず、黙々と勉強していた。

そういう私も、やっと座れた事にホッとする暇もなく、私はバッグから分厚い仏語の辞書と、数冊のテキストを取り出し、テーブルに広げて、サンドイッチ片手に、午後の授業の予習を始めた。

どのくらい時間が過ぎただろう。

喉が渇いたので、自販機で飲み物を買おうと顔を上げた時、いつの間にいなくなったのだろうか。相席していた筈の三人はすでに姿を消していた。課題に熱中し過ぎて、彼らが席を立った事に全く気づかなかった。

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