《MUMEI》

彼は顔を上げ、驚いたような顔をしたが、すぐに微笑み、頷いた。

「そうだよ。言ったでしょ、英語の特訓中だって」

この学校の英語科は、生徒のほとんどが帰国子女や留学経験者だったのでレベルが高い。ネイティブスピーカーと同等に会話が出来る者ばかりとの噂だった。

「それじゃ、英語ぺらぺらなんですね。凄いわ」

ノートに視線を落とし、文章を書きなぐりながら、私は素っ気なく言った。彼は苦笑して、「そんな事ないよ」と答える。

「勉強はしてたけど、日本生まれの日本育ちだからね。クラスメートみたいに帰国子女じゃないから、苦労してるよ」

「でも留学経験はあるんでしょう?」

「無いよ。学生の時、LAに何回かステイしてたただけ。留学なんて呼べる程、立派なものじゃない」

私はゆっくり顔を上げた。彼は穏やかな表情で私をじっと見つめていた。
彼は、「君は?」と尋ね返す。

「フランスに留学したことあるの?」

「ない。お金ないから」

「じゃ、旅行は?」

「…ない。パスポートすら持ってないもの」

答えながら、私は少し悔しくなった。私のクラスメートは、ほとんどが留学ではなくとも旅行なり、短期ステイなり、ワーホリなりで渡仏した事があるひとばかりだった。
彼等が得意げに、フランスのあそこは良かっただの、あれは有り得ないだのと話で盛り上がる度、何とも言えぬ疎外感と劣等感に押し潰されそうになった。
私が「フランスは疎か、海外へ一度も行った事がない」と答えると、みんな、信じられないという顔をした。
そして、決まってこう言うのだ。

『櫻井さんは、まだ若いからね〜。これからよ、これから』

励ましのつもりなのだろうが、その言葉は私のちっぽけなプライドを、酷く傷付けた。

まだ若いから。
これから。

そんな事は、関係ない。
私より年下の子だって、今時海外なんかあちこち行っている。
ただの慰めだ…。

良いふうに受け取ろうと思っても、どう考えても、留学した経験のない私を哀れみ、そして見下している気がしてならなかった。
この、目の前の彼も、みんなと同じ言葉を口にするのだろうと思うと、心底うんざりした。

しかし。

彼は「そうなんだ」と簡単な調子で言う。
そして。

「じゃあその時が来るまで、日本でじっくり勉強しなよ」

私は一瞬固まり、「え?」と聞き返した。彼は気にする様子もなく、続ける。

「俺さ、思うんだけど、日本人て勉強しなさ過ぎじゃない?」

「…は?」

「ステイしてた頃にさ、日本人の女の子が交換留学かなんかで、俺と同じ専門学校にやって来たんだけど、ネイティブのクラスメートが話し掛けても、何も答えずニコニコしてるだけなんだよね。で、気になって、何で話さないの?って聞いたら、何て言ったと思う?」

「…何て言ったんですか?」

私は眉をひそめて尋ねた。彼は呆れたように軽くため息をつく。

前へ |次へ


作品目次へ
感想掲示板へ
携帯小説検索(ランキング)へ
栞の一覧へ
この小説は無銘文庫を利用して執筆されています。無銘文庫は誰でも作家になれる無料の携帯・スマートフォン小説サイトです!
新規作家登録する

携帯小説の
無銘文庫