《MUMEI》

少しして、啓介が「一体、どうしたんだよ?」と小さな声で尋ねる。
呆然としたまま、ゆっくり顔を上げると、そこに不安げな表情を浮かべた啓介の顔があった。

「本当に変だぞ。具合、悪いのか?」

彼の質問に、私は力無く首を振る。啓介は「瑶子…」と固い声で私の名前を呼び、身を乗り出してきた。

「正直に言えよ。ちゃんと話してくれなきゃ分からないし、何より心配だよ」

誠意のある言い方で、私の胸を打った。私は一度瞬いて、それから俯いた。
再び、沈黙が流れてくる。
答えない私に、啓介は諦めたのか、椅子に座り直したようで、ギシッと何かが軋む音が聞こえた。
それと、ほとんど同じタイミングで、私は口を開く。

「忘れてなかった」

ぽつんと呟いた私の言葉を聞き取れなかったのか、啓介は「え?」と間の抜けた声を上げた。
遠くの席から、女の子達のけたたましい笑い声が響いてくる。
その声を聞きながら、私は顔を上げて戸惑う啓介の目をまっすぐ見つめる。
そして、続けた。

「全然、忘れてなかったの…!」

その言葉が合図だったように、私の瞳からぶわっと大粒の涙が零れ落ちた。
突然泣き出した私に驚き、啓介は慌てふためく。

「どうしたんだよ!瑶子!?」

彼の声を聞くと、私は何故かより悲しい気持ちになり、一層激しい泣き始めた。
人目を気にせず子供のように大声で泣くものだから、周りの人達も私達に不審げな視線を投げ掛けている。

それでも涙は止まらなかった。
どうすればこの苦しい気持ちが消えるのか分からなかった。

ついに私はテーブルに突っ伏して、わんわんと泣いた。その傍らで啓介が困り果てながら、「瑶子、瑶子…」と繰り返し名前を呼ぶ声が聞こえていた…。




あの出会いの数日後、午前中の授業を終えた私は、玲子に俊平の話をした。
出会ったいきさつを詳しく説明すると、玲子は呆れたように言った。

「それってつまり、ナンパでしょ」

「ナンパ?」

理解出来ず、私が眉をひそめると、玲子はやれやれといったふうに肩を竦めた。

「瑶子に隙があったってこと。今度そいつに会ったら、『バカにすんな』って怒鳴ってやりなさい」

私は益々理解出来なかった。
しかし、言い切ってすっきりしたのか、玲子は私を促し、カフェテラスへ向かった。
玲子と一緒の時は、あまり校内のカフェへ行く事はないのだが、この日は私が午後一番のクラスを取っていた為、簡単に食事を済まそうと思ったのだった。

平日のカフェは週末とは異なり、ガランとしている。テーブルも選び放題なのだ。

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