《MUMEI》

彼女は、本格的にフランス語を習得する為、あっさり会社を退職して、留学先を見つけてきたのだ。
度仏するわけだから、もちろん学校も辞める。けれど、玲子はさっぱりとした顔をしていた。

「フランス人にバカにされないように、頑張ってくるわ。応援してよね、瑶子、俊平!」

最後にフェテラスで会った時、そう言った玲子は本当にキラキラと輝いて見えた。

玲子と別れるのは辛かったけれど、寂しく無かった。
だって傍には、いつも俊平が居てくれたから。
俊平は出来る限り私と会う時間を作ってくれた。
私も上級クラスになったことで、授業数も減り、以前より自由になる時間が増えた。


私達はよく、二人で出掛けるようになった。


昼休みに学校近くの公園でまったりしたり、学校帰りにレストランで食事したり、たまに遠出して湘南海岸を散歩したり、鎌倉でお寺巡りしたり−−−。

俊平はカメラが好きだったようで、出掛ける時はいつも、カメラを持ち歩いていた。

美しい風景や生き生きとした動植物、そこを行き交う人々…。

そして、彼の隣を歩く私を被写体にした。

楽しかった。
俊平は、私の知らない世界を沢山、教えてくれた。彼と一緒にいると、私はいつもより自然に笑えた。
彼も同じように思っていてくれたら、どんなに幸せだろうと思った。


彼に、恋をした。


それを自覚したのと、俊平が私に告白してきたのは、ほとんど同じ頃だったと思う。

俊平ははにかんだように笑い、私に言った。

「瑶子の事、ホントは前から知ってたんだ…カフェで、熱心に勉強してるなーって、いつも見てた。初めて話した時、俺、すっげー緊張してたんだよ」

頬が熱くなるのを感じた。私の顔を見て、俊平は明るく笑う。

「玲子に『ナンパすんな』って言われた時はもう、生きた心地しなかったね。見破られた!って、本気でビビった」

私は当時を思い出し、吹き出してしまった。そういえば、玲子は俊平の事、嫌っていたっけ…。
俊平は私の笑顔を優しく見つめ、手を差し延べた。
骨張った、大きな、男のひとの手。
その逞しい手を、私はしっかり握り返した。
俊平の眩しい笑顔が、目に焼き付いている−−−。

俊平の手は、温かかった。
その温もりは、私の心を優しい気持ちで満たしてくれた。
彼が触れる度、私はとても穏やかな気持ちになれた。

初めてキスをした時も、初めて身体を重ねた時も…。


彼の寝顔を眺めながら、私は世界で一番、幸せだと、思った。


好きなひとに愛されて、好きなひとを愛することが出来る−−−。


ずっと、このまま、二人で居られたら。


そんな幼い幻想を抱いていた、あの頃の私。
すっかり、忘れていたのだ。
恋人である前に、私達は、『同志』であった事を…。

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