《MUMEI》 ずっと忘れないように俊平は私の目を正面から見据えて、言った。 「嗅覚は脳の記憶の回路と直結してるんだってさ」 嗅覚が、脳の回路と直結している…。 ずいぶん難しい話のように感じた。突然、そんな事言われても、私の頭がついていかない。 意味が分からず、私は素直に聞き返す。 「…直結してるって、どういうこと?」 私が興味を持ってくれたと思ったのか、俊平は嬉しそうに身を乗り出し、「例えば…」と説明し始める。 「何かの香りを嗅いだ拍子に、今まですっかり忘れてた記憶を、突然思い出したりするんだって」 「瑶子も経験あるだろ?」とさらに尋ねられた。 香りによって、記憶を思い出す…? そう言われても、あまりピンとこなかった。よく分からない私は、考え込むフリをして答える。 「どうかなぁ…?そう言われてみれば、そうかもしれないけど」 私の答えを素直に受け取った彼は、「…だから、これ」と言いながら、テーブルに置かれていた、イエローの箱の方を私の前に差し出す。 私はじっとその箱を見つめた。 そのパッケージの中央あたりに、小さな字で『Week-End』と、筆記体でプリントされていた。 「やるよ…『Week-End』っていう香水なんだ。週末をゆっくり過ごすイメージなんだってさ」 週末をゆっくり過ごすイメージ。 顔を上げると、俊平は照れたように笑う。その笑顔を見て、私は何となく戸惑ってしまう。 「香水なんて…何でまた、そんなお洒落なもの…」 言いかけると、俊平は寂しげに微笑んだ。 「俺達は、アメリカと日本で遠く離れて暮らしてて、オマケに時差まであって…同じ日、同じ時間を一緒に…まして週末を過ごすって事、出来ないだろ」 そう言いながら、俊平は黄色い箱を開けた。自然と彼の手元に視線が吸い寄せられる。 「気休めかもしれないけど…」と箱の中から香水瓶を取り出す。 平たい円形の透明なガラスボトル。その中には鮮やかなイエローの液体が満たされていた。 「これで、同じ時間を共有出来ればと、思って」 彼の言葉を聞きながら、そのボトルをじっと見つめていた。 少しの沈黙の後、彼が穏やかな声で、言った。 「瑶子が俺のこと、ずっと忘れないように」 私は、顔を上げる。彼のまっすぐな視線と私の視線がぶつかった。 俊平は、言い聞かせるように、そっと囁いた…。 「その『Week-End』の香りで、今日の事をすぐに思い出せるように…」 俊平のその言葉は、何年の歳月が過ぎようとも、私の心をがんじがらめに捕らえて離さなかった。 私達の心が、すれ違ってしまった、今になっても−−−−。 前へ |次へ |
作品目次へ 感想掲示板へ 携帯小説検索(ランキング)へ 栞の一覧へ この小説は無銘文庫を利用して執筆されています。無銘文庫は誰でも作家になれる無料の携帯・スマートフォン小説サイトです! 新規作家登録する 無銘文庫 |