《MUMEI》
通りすがり
どれだけの時間が流れたのだろうか。

突然、俊平が、思い切ったように言った。

「5年は、帰らない」

私がゆっくり振り返ると、俊平の真剣な瞳と私の視線がぶつかった。
彼は続けた。

「向こうで5年間、カメラの勉強をして、一人前なるまで、俺は日本に戻らない」

私は瞬いた。

彼の言い方はとても断定的で、その言葉の裏には、揺るぎない、絶対の決意が秘められていることに、気づいた。

「帰国したら、その事を、瑶子にちゃんと伝えようと思ったんだ…」

−−私達は本来歩むべき道を、それぞれ歩き出しただけ…。

彼の声に重なるように、再び、玲子の言葉が聞こえてきた。

俊平が歩むべき、道。
それを、彼はちゃんと見つけたのだ。

これは『報告』…。

「どうしたらいいか」等の、『相談』ではなく、「自分はこうする」と、いった類の。

ひたすら待ち続けていた私と、この先に広がる未来を、共に歩むことを、俊平は放棄したのだ。


己の、『道』の、ために。




「帰る」

気づいたら、勝手にそう言っていた。
私はバッグを引ったくるように手に取ると、乱暴に椅子から立ち上がり、バタバタと慌ただしく店から出た。

「瑶子!!」と、彼が私を呼ぶ声が背後から聞こえたが、無視した。


彼の声を、もうこれ以上聞きたくなかった。
彼の姿を、もうこれ以上見たくなかった。
彼と同じ空間に居ることが、もう、これ以上堪えられなかった…。

…辛かった。

彼が、すでに私の知らない世界にいることが。彼が、私の知らないひと達と楽しく過ごしていることが。
そして、彼が、私をもう必要としていないことが、何より辛かった。


−−瑶子の場合は、周りが見えなくなってるように感じるの…。

不意に、玲子の声が流れてきた。

その通りだった。
もはや、何も見えない。
自分の将来も、自分の心も、彼の気持ちも、私達の未来も。

何も、見えないのだ…。


「待てよ!」

店を出て駅の改札口の手前で、私は俊平に捕まった。髪は乱れ、俯いたまま、彼の顔を見ようとはしなかった。
彼に腕を掴まれた時、ふんわりとウィークエンドの香りが漂ってきた。
その、魅惑的な香りに、一瞬意識が混濁する。

「どうしたんだよ、急に…」

息を切らせて、彼は尋ねた。私は黙り込む。

…どうした?
どうした、ですって…?

身体が勝手に震え出すのを感じた。
彼は深いため息をついて、穏やかな声で言う。

「…色々考えた末に、決めたんだ。俺だって不安だよ。カメラ一つで、この先、本当にやっていけるのかって」

そこで区切ると、呼吸を整えるため、彼は深く息を吸い込んだ。
それから続ける。

「もちろん、お前のことは大切だよ。本当に好きだし、大事にしたいと思ってる。でも…」

彼は急に口をつぐんだ。途端に沈黙が私達を包み込む。

でも。
でも、なに…?

私はゆっくり顔を上げた。俊平は悲痛な面持ちで、私を見つめていた。

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