《MUMEI》

黙っている私に、啓介は「でも」と続ける。

「もしも瑶子が、俺の気持ちに応えられないんだったら…今でもそいつを好きで、忘れられないんだったら」

彼の瞳が、一瞬、切なげに歪んだ。
言いづらそうに、彼は呟いた。

「好きなように、しろよ…」

好きなように。
一体どういう意味なのか…。

そう言い終えると、彼は両手で顔を覆った。泣いて、いるのだろうか。心配になり、彼の顔にゆっくり手を差し延べる。私の指先が、彼の左耳に触れる、その前に。
信じられない言葉が、聞こえた。


「結婚、考え直そうか」


その台詞の重さに、一瞬目の前が真っ暗になる。結婚を考え直す。それは、私と啓介の関係を終わらせるという事。

好きなようにしろ、というのは、この事か…。


「どうして…?」

どうしてそんなことを言うの?
あなたと結婚するために好きだった仕事、辞めたんだよ。
あなたと一緒なら、きっと幸せになれると思って、指輪を受け取ったんだよ…。

次々に色んな思いが浮かんできたが、何一つ言葉に変換されなかった。

震える声で尋ねると、彼は顔を覆ったまま、淡々と答えた。

「こんな状態のまま、一緒になったって、意味がない。例え結婚しても、この先どんな未来が待ってるかなんて、簡単に想像出来る…」

俺、そこまで人間出来てない…。

私は何も言えなかった。無力な私は、小さくなった啓介の姿を、ただ呆然と見つめ返すことしか、出来ずにいた。




デパートから出た私達はそのまま啓介のアパートに戻った。
本当は今日も彼の部屋に泊まるつもりだったが、彼がそれを拒否した。

「悪いけど、今日は帰って」

疲れ切った声でそう言われると、私は何も言い返せなかった。啓介は私を部屋の中にも上げてくれなかった。

二人の間に、深い溝が出来た気がした。

いいえ。

本当は元からそこにあったのに、わざと気付かないフリをしていたのかもしれない。

玄関先で、啓介は私のトートバッグを手渡すと、「一人で帰れる?」と尋ねた。
暗に、一人で帰れと言っているのだ。
いつもなら、最寄りの駅までかいがいしく送ってくれるのに。
しかし、私は黙って頷く事しか出来なかった。

後ろ髪を引かれる思いで、ようやく「それじゃ、帰るね」と言った。啓介は何も答えなかった。数秒見つめ合ってから、私は振り切るように身を翻して、アパートの外階段を駆け降りた。

私が階段を降りた時、遠くから、ドアが悲しげに閉まる音が、聞こえた−−−。


啓介を、傷つけた。
その傷の深さは、計り知れない。
そして、どうしたら彼を癒してあげることが出来るのか。
私には到底、思い付かなかった。

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