《MUMEI》

夕方の駅構内は、どこか忙しない。
皆家路を急ぎ、あちらこちらに行き交っている。
私が荷物を抱え、駅のプラットホームで電車を待っていると、アナウンスが流れた。信号機トラブルの為、次の電車が30分程遅れているとのことだった。

学生ふうの若いカップルが、私のすぐ傍に立っていて、その彼女の方が、そのアナウンスを聞くなり、「最悪〜」と不満を漏らした。
ふて腐れた彼女の声を聞くと、彼は爽やかに笑った。

「いいじゃん。おかげでもう少し、一緒にいられるんだから」

彼の愛のある台詞に彼女は照れながら「バーカ!」と言って、彼に抱きついた。

その様子を見て、私は本当に悲しくなった。
街中に愛は溢れている筈だった。
私もその中で、啓介の大きな愛に包まれている筈だった。

それなのに…。

私は両手で顔を覆った。出来ることなら、思い切り泣きたかった。人目をはばからず、子供のように泣きじゃくることが出来たなら、この悲しみはきっと癒される。しかし、涙は一向に瞳から溢れ出すことはなく、ずっと渇いたままだった。

『悲しみ』というものは、涙を与えてくれるものだと思っていた。だから、その『悲しみ』が、まさか涙を奪ってしまうなんて知らなかった。

結婚、考え直そうか。
啓介はそう言った。

だとしたら、今までの私達は、何だったのだろう。

同窓会でのあの再会。
初デートは映画で3回目のお花見デートでキスをした。
それから付き合いだし、初めて彼のアパートで一緒に過ごした夜…職場に無理いって夏休みをとって、二人で旅行もいった。
クリスマスには無理やり手料理を作らされた。
年末年始は海外行きたいね〜と言いながら、毎年、彼の部屋でテレビで紅白歌合戦を見て、除夜の鐘を聞いた。
仕事に追われて、バレンタインのことをすっかり忘れてしまい、子供みたいに彼がすねていた。
仕方ないからホワイトデーに二人でプレゼント交換…とりあえず彼も納得。一安心。
月日はどんどん流れていったが、私達は変わらず楽しい毎日を過ごした。

そしてあの夜。
久しぶりのドライブデートでプロポーズ。

啓介が緊張しすぎて、車の中で音楽を聴こうとしたのに、間違ってパワーウィンドーのボタンを押したこと、二人で笑った。

記憶の中の、そのエンゲージリングの輝きが、滲む。

私に指輪を差し出した、あの日の啓介の顔が、今では霞んでしまって、よく思い出せない。

神さま、と心の中で祈った。

どうしたらいい…?

目の前に広がっている、彼との深い深い溝。向こう側に行きたいのに、その溝の深さに目が眩み、怖くて躊躇っている自分。

私は、どうやって前に進めば良いのだろう。


電車が、けたたましい警笛を響かせながら、ホームに滑り込んできた。
その警笛の音が、誰かの泣き叫ぶ声みたいに聞こえた−−−。

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