《MUMEI》

「相手が、何を考えてるのか分からない…私に、どうして欲しいのかも」

独り言のように言うと、母はキョトンとした顔で振り返り、「当たり前じゃない」とあっけらかんと答える。

「みんな違う人間なんだから、何考えてるかなんて分かる筈がないでしょう?」

私は驚いた。
違う人間…それはかつて、玲子に言われた言葉だった。母は続ける。

「誰かの気持ちを分かろうだなんて、あんた一体、何様のつもり?」

きっぱりと言い放つ母にア然として、私は返す言葉が見つけられなかった。母は鍋に蓋をして、言う。

「相手がどう思ってるのか分からないのは当然よ。でも、裏を返せば、相手だって同じこと…私達の気持ちも通じてないのよ」

母は私を押しやってシンクに移動し、手を洗う。

「そう割り切って、ひとと付き合いなさい」

キュッと蛇口を捻る音がした。私は、自分の手元に目を落とす。

割り切って、ひとと付き合う。

ずいぶん冷たい言い方に聞こえた。
私は「でも」と反論する。

「分かってあげたいじゃない。どう考えていて、どうして欲しいのか…知りたいじゃない」

知りたいのだ。
啓介が、本当に結婚を取やめたいのか。
本当に、私に愛想を尽かせてしまったのか。
彼の気持ちが知りたい。

火にかけていた鍋がカタカタと音を立てて震え出した。それに気づいた母は「火が強すぎたかしら…」と呟きながら、ふきんで手を拭き、コンロへ向かう。
ガスの調整をしながら、そして、言った。

「だったら、もっと自分の気持ちを言いなさいよ」

私は顔を上げる。母は鍋の蓋を取り、中を覗いていた。こちらを見ないまま、続ける。

「何考えてるんだろう、とか、こう思ってるのかな、とか、自分の中だけで考えても状況は変わらないでしょ。相手の気持ちを知りたいと思うなら、まず自分の気持ちを相手に伝えなきゃ」

自分の、気持ち。

「私はこう思ってて、こうしたいのって、ちゃんと口に出さなきゃ伝わらないわ。あんたはエスパーじゃないんだから。相手が自分の気持ちを吐き出さないなら、自分から言ってみなさいよ」

前に進みたいなら、ね。

言い切ると母は蓋を閉じる。そして私の顔を見た。

「早くジャガイモ切ってちょうだいよ。鍋煮立っちゃうでしょ」

そう言われてハッとした。まだ一つも皮剥きが終わっていない。慌てる私を見兼ねた母は包丁を手に取り、私の隣に並んでジャガイモの皮を剥きはじめた。

「お母さんも、お父さんの気持ち、分からない?」

少し間を置いてから、私は母に思い切って尋ねた。母は顔を上げないまま、「分かるわよ」とあっさり答える。
私は眉をひそめた。

「でも、ひとの気持ちは分からないって…」

さっき言ったくせに、と続けようとしたが、母は遮った。

「分かるわよ、お父さんは単純だもの。顔を見れば、すぐ、何考えてるか分かるわ」

そして私の顔を見上げた。

「お母さんはエスパーだから」

一瞬私は固まる。そんな私に母は、「冗談よ、やーね。今の笑うところでしょ」とため息混じりに言った。リアクションに困った私はとりあえず無視することにして、再びジャガイモの皮剥きを始めた。

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