《MUMEI》

私は心の中で舌打ちし、電話をあてていない方の耳を手で塞いで、玲子の声だけに集中しようとする。

「ゴメン、玲子!何言ってるのか、全然聞こえない」

正直に言うと、玲子は少し苛立ったように、「だから!」と強い口調で繰り返した。

「帰ってきたのよ!!」

帰ってきた?

そして、また酷いノイズが私達の会話を邪魔する。
いい加減うんざりしながら、「だから、誰が?」と尋ねようとした。

その時。

向かいの椅子の背もたれを掴む手が、私の視界に映った。

私は一度、瞬く。

誰…?


頭の中に響いたのは。
記憶の中のあのひとへ送った、シグナル。

−−私は、ここに、いる。

遠く離れたあのひとへ、届けたかった、私の、想い。


ぼんやりとした私の耳に、玲子の怒鳴る声が、流れてきた。

「だから、おととい!!おととい、メールがあってね!帰ってきたって!!聞こえてる!?」

聞こえてる。
帰ってきたんでしょう…?

そう…ちゃんと、分かってるよ。

私はゆっくり顔を上げる。
椅子に置かれた、その長い骨張った指先から、なぞるように視線を上へとずらしていく。
手から腕へ、腕から肩へ…そして、そこに立っている相手の顔を、私が確認したのと、玲子の声が響いたのは、ほぼ同時だった。


「俊平が、帰ってきたのよ!!」


そう。
分かってる…。

−−彼は、ここに、いる。

私は呆然として、彼の顔を見上げた。
力が抜けて、電話を持っていた腕が、ゆっくりと膝の上に降りてゆく。
それに合わせて、玲子の心配そうな声が、だんだん小さくなっていった。

雑音が消えた、静寂の中、私はテーブルを挟んで、彼と見つめ合っていた。

彼は、昔と同じように、眩しい笑顔を浮かべて、昔と同じように、こう、言ったのだ。


「座っても、いいですか?」、と。


そう、それは。
初めて私達が出会った、あの日のように。

私と俊平は、しばらく何も言わずに、ただじっと見つめ合っていた。

心が、あの日に帰っていくのを、感じながら…。




「久しぶりだね」

最初に口を開いたのは俊平だった。
彼の低い声に、私は我に返る。そして、慌てて微笑んで見せた。

「そうだね…確か、5年振り、かな?」

曖昧に答える私に、彼は微笑んで、「座って、いい?」と再び尋ねた。私は無理に笑顔を作り、「もちろん!」と明るい声で言った。
彼は軽い調子で、「失礼します」と一言断った。昔と、同じように。

切なくなりながらも、その気持ちをごまかすために、私は話を切り出した。

「いつこっちに帰ってきたの?」

私の質問に、俊平は肩を竦めて見せた。

「おとといの昼過ぎ、だね。相変わらず時差ぼけの治りが悪くて困ってる」

おととい…。
仕事を辞め、そして玲子と会った日だ。
そんなことを考えながら、適当に相槌を打つ。

「そういえば、そうだったね」

私は5年前、ここで彼と再会した時のことを思い出す。あの時も、彼は「時差ぼけが治っていない」と笑っていた。

あの頃と、変わってない…。
俊平は、変わってないのかもしれない。

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