《MUMEI》

安易な考えに飲み込まれそうになった時、脳裏に浮かんだ、その顔は。

プロポーズされた、夜。
啓介が、私に見せた、嬉しそうな、あの笑顔…。

…これ以上、彼を傷つけられない。

激しいジレンマに、酷く混乱している私の表情を素早く読み取り、俊平は首を傾げて覗き込み、悪戯っぽく笑う。

「困った顔してる」

私はぼんやりと彼の顔を見つめていたが、ゆっくりと俯く。浅はかな考えに捕われ過ぎて、まともに顔を見られない。
それを知ってか知らずか、彼は可笑しそうに、言った。

「結婚、するんだろ?」

彼の言葉に、弾かれたように顔を上げた。

どうして知っているの…?

驚く私に、彼は「玲子から聞いた」と説明した。

「帰国したこと、本当は瑶子に伝えたかったんだけど、拒絶されるのが怖くて、どうしてもメール出来なかった。だから玲子に間を取り持って貰おうと思って…」

そこで一息置いて、「でも」と寂しそうに言った。

「やっぱり、遅かったかな…」

当然か…待たせ過ぎたよね。
彼は自虐的にそう言って、悲しく笑う。そんな俊平がとても…とても小さく見えた。

どうして、そんな顔するの…?
お互いのために、別れを選んだ筈でしょう?

だから、私は−−−。

思うことは沢山あった。けれど、私はどうしても言葉が出て来なくて、黙り込んでしまう。

重い沈黙の後、俊平が、「安心して」と爽やかに言った。

「もう、瑶子を困らせないから」

意味が分からず、私は「え…?」とたじろいだ。俊平はニッコリ微笑んで、それについては何も答えず、ただ言った。

「長い間独りにして、本当に悪かった。お前の気持ち、無視して勝手ばかりで…そのことを、今日は謝りたかったんだ」

本当に、ごめん…。

私は呆然とした。口が、動かなかった。
俊平は、ゆっくりと立ち上がり、「帰ろうか…」と私を促した。

「駅まで送る…そのくらい、いいだろ?」

私は、それに黙って従うほか、無かった…。




外はだいぶ日が暮れて、空は薄紫色に染まり始めていた。
その夕闇を、私と俊平は歩く。
二人の間には、微妙な距離があった。
手を伸ばせばすぐ、届くくらいの。でも、それは果てしなく遠く離れた−−−そう、アメリカと日本、いいえ、それ以上に遠いものに感じて、私は悲しくなる。

もう二度と、触れ合うことはない、二人。

そう痛感して、私の気持ちは沈んでいった。




夕方のラッシュで混み合う駅の改札口で、私は顔を上げ、俊平に笑顔を見せる。

「送ってくれて、ありがとう」

わざと、さっぱりとした声で言った。そうでもしなければ、すぐにでも泣き出してしまいそうだったから。
俊平は笑って「どういたしまして」と答えた。

「今日、瑶子に会えて良かったよ」

「私も…」

そこで会話が途切れて気まずい空気が流れ出す。これ以上、話なんか出来なかった。

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