《MUMEI》 混雑する場所でぼーっと立ち尽くしていたから、家路を急ぐサラリーマンと、肩にぶつかり、少しよろけた。そんな私を支えよ うと、俊平がそっと私の肩に手を添える。 ふんわりと、漂ってきた、その香りは。 それは、紛れも無く、あのウィークエンドのもの…。 私達の、遠く離れた心を繋ぐ筈だった、香り…。 切なさに胸が震え、視界が涙で滲む。 彼の手から微かに伝わる、その温もりさえ、今は辛かった。 私は彼の手を、躊躇いがちにそっと退かして、「じゃあ、行くね」と爽やかに言い、改札口に向かって歩き出す。 これで、最後。 きっと、彼とはもう会えない…。 数歩進んだ私の背中に、俊平の私を呼ぶ声が、投げ掛けられた。 悲痛な、声に聞こえた。 『彼を、見てはいけない』 私の中で、誰かが、そう訴えかけた。 けれど…。 私は、恐る恐る、振り返る。 俊平は、視線を私にまっすぐ向けていた。 その瞳は、5年前、駅前で別れた時と、全く変わらない強さを秘めたもの。 彼は泣き出しそうな私の顔をじっと見つめて、そして、優しく微笑む。 「結婚、おめでとう…幸せを、祈ってる」 私は大きく瞳を開いた。 それだけ言うと、俊平はゆっくり身体を反転させて、私に背を向けた。その姿から、目が、離せなかった。 だんだん彼の背中が小さくなり、人混みの中に消えていく。 喉の奥が、引き攣るような感じがした。 気を赦せば、彼の名前を、叫んでしまいそうだった。 私、待ってたんだよ。 今日みたいに、あなたが、笑顔で迎えに来てくれるのを。 ずっと、ずっと。 5年前のあの日から、ずっと、夢見てたのに−−−。 言いたいことは、沢山あった。 けれど何一つ、口に出来なかった。 私の心の奥底に、ずっと秘めていた、この想いさえ。 無力な私は、ただ彼の小さな背中を見つめることしか出来ずに…。 あの頃と、何ら変わらない、馬鹿な私。 あの頃の自分に戻ってしまうのは、絶対にいやだった。 彼のことを忘れて、違う人生を力強く歩んできた…つもり、だった。 しかし、思い知る。 あの頃から、全然、成長していないことに。 駅の奥から、パアアアァン…と電車の警笛が、悲しげに鳴いたのが、聞こえた。 家に帰ると、家族はもうすでに夕飯を済ませていた。私の顔を見て、母は面倒臭そうに言う。 「ご飯、食べるの?」 そんな気分になれない私は、「いらない」と無愛想に答えた。すると母は、何か思い出したように、「ああ!」と声を上げる。 「啓介さんと済ませてきたのね?」 当然のように、そう言ったので、私は眉をひそめる。 「何で、啓介となのよ?」 尋ねると、母は首を傾げて言った。 「夕方、家に電話があったの。瑶子さん、いらっしゃいますかって」 その言葉に驚いた。「啓介から?」と素っ頓狂な声を上げる。母は私の様子にたじろいだようで、一度、口をつぐんだ。 前へ |次へ |
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